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李登輝元総統講演録 (1月25日 地方議員訪台団との会見にて)
武蔵村山市議会議員 天目石要一郎
1月25日に、日本李登輝友の会 地方議員会員 訪台団と李登輝元総統との会見が行われました。李登輝元総統は、私たちのために、わざわざ講演の原稿まで作られて待って下さっていました。
会見から1ヶ月近くかかりましたが、ようやく、講演録が出来ました。
できるだけ、李登輝先生の話された事を一言一句書きとめようとしましたが、良く聞き取れなかったところがありますが、ほぼ、忠実に書き起こせたのではと思います。
ところどころ「・・・・・」となっているのは聞き取れなかった部分です。
李登輝元総統の口癖の「○○なんだよ。」など、お話をうかがった事のある方は李登輝総統の語り口を思い浮かべながら読んでみてください。
原稿はあるのですが、話が脱線していろんな方向に話が広がっていきます。
私は、そんな雑談のような話の中に、李登輝元総統の人柄がうかがえると思います。
貴重なお話ですので、是非、ご一読ください。
李 今日はわざわざいらっしゃいまして、あの、皆さんから何かお話ありませんか?
・・・訪問団、恐縮している。
李 私忙しくないのよ。日本から友達が若い人が来るのをいつも待っているのよ。
李 今までは団長さんだけに、お土産をあげておった。今度は団長だけお土産もらって一緒に来た団員、あの、空っぽで帰るのはちょっとおかしいじゃないかと。皆さんには小さいけどもちゃんとお土産を持たせるという事に決めました。片木さん(李登輝友の会 事務局次長)、そうでしょ。今までそうだった訳よ。今度はね、団員さんみんなにね。全部ね、あげようと、気持ちがそう、違うじゃないかと。
今日は皆さんに話をしたいというのはね。結局この、台湾人の対日感情とね、日台関係についてのお話をしようと、するとね半分ぐらいの時間、あとは皆さんから意見を出してもらってお話をしましょう。準備した資料がありますから。
日本李登輝友の会地方議員訪台団、団長野田先生、副団長宮川先生はじめ団員の皆さん良くいらっしゃいました。色々考えまして、台湾と日本、皆さんにね、毎日変わるこの世界情勢を日本と台湾における情勢と、いわゆる台湾の一般的な対日感情とそれから台湾の政府の歴史、今まで私が今日考えておったのはね。台湾と日本100年来の歴史、およびその後の関係という話をしようと思ったんですけどね。最近における対日感情というのは非常に大事だと。台湾の戦後史も入れて、皆さんに何か教え、申し上げたいと。
それから最近における、交流協会の前の所長である池田先生、今、顧問をやっておられますがね。この人が今一生懸命なってね。結局2010年。昨年からはじまったようですけど、2010年の日台文化交流というのが、台湾と日本の間における経済関係や交流、当地の政治的な面はね、非常に牽制を受けてあのなかなか進んでいないようですけどね、ただ、この文化交流を進める事によって、人民と人民の間の関係を広げるという話になっていますね。こういう機会を利用しまして、皆さんにも報告しようと考えております。対日感情と台湾の戦後史についてお話しますと、これからの日本と台湾の未来を考える上に、台湾人の対日感情を知っていただきたいと思います。台湾人というのは日本に対する感情は何か?同じように、あの、いわゆる韓国も日本の領土だったんですが、この韓国人の日本に対する感情とまた台湾人の日本に対する感情、あるいは、中国人の日本に対する感情とはそれは全然違うということをね。私は結論付けて話します。
これは台湾の戦後史に依拠している。台湾の戦後史、第2次世界大戦後、終了後、一年ほどしてから台湾では228事件という暴動が起きました。この暴動はこれは地方的な問題ではなくて台湾全体、北から南まで、東は西まで全部、結局この暴動に入ったわけです。戦後まもなく日本統治が終わった台湾では、役人・軍人など公務員の汚職が汚職が横行し、経済は大変な局面に入っていました。失業者はものすごい増える、産業は発展しないと、物価は上がるしね、結局、中国大陸の内部の影響もありまして、台湾が大変な経済混迷の中に入っていったんです。
国民党政府は台湾は祖国に復帰したと言って、盛んに台湾人をして、台湾人は中国人だ。台湾は祖国に復帰したとこう言っておりますが、台湾人民には日本統治時代よりも、いわゆる祖国に戻った台湾は酷いじゃないかと思っておったわけです。
というのは、ここで私の言う228事件というのは何かと言いますと、228事件とは文明の衝突、50年間にわたる日本の植民地統治というのは台湾をして近代化させました。その代わり中国はおそらくずーと清朝終わりからいわゆる国民党共産党の内戦によって、ほとんど退化の一方、ほとんど近代化に入っていけない。この台湾が近代化している状態の中に結局遅れていた中国が、蒋介石政権が連れてきたあのわらじを履いた兵隊さんと、傘と鍋を下げた兵隊さん、これだけでも大変ですよ。1947年2月28日台湾全島に暴動が起こりました。暴動の中心には日本の軍隊から復員し日本統治時代と余りにも異なる惨状に怒りを覚えた人達がたくさんいました。当時、蒋介石は中国本土にいましたが、時間稼ぎのために各大都市に調整委員会を作り教育を受けた有能な人々を集めました。だいたい皆さんのようにね、市長・議員とかね県の委員とかがね結局この調整委員会に集まるんだ。
私はちょうど大学4年生、私も毎日中山路に行って、公会堂に行って、その調整委員会の話を聞いておったよ。私は日本の軍隊から復員して台湾大学の4年生に在籍しておりました。皆さんご存知と思いますが、帝国陸軍少尉李登輝ですよ。岩里政夫というのはね私の昔のね。帝国陸軍から復員したばかりの学生ですよ。それが台湾に戻って再編入し、4年生に在籍しておりました。毎日、台北の調整委員会に出かけ会議所のドアの外から何が話し合われているのかを聞いていました。その時、私は、「これは大変な事だ。委員会は軍隊を送り込むまでの時間稼ぎをしているにすぎない」と感じました。つまり大陸からの台湾における警察・軍隊は国民の暴動によって、台湾の人々によって占領されているね。そんな時にどうするかというと、大陸から大量の軍隊を送り込む以外に道がないのです。そのための時間稼ぎとして、いわゆる、その調整委員会をつくり、台湾の地方における有能者いわゆる指導者になるべき人間を集め、ここで討論をやっておった。で、私が4年生で、学校の休みはのこのこと公会堂へ話を聞きに行きます。聞いてますと、これは大変です。時間稼ぎですよ。中国の軍隊が来るまであれやこれやと言ってね。半分はあの、いわゆる、その許して良い話だけして、ここで安心させて時間ばかりをおしゃべりですごして、時間が来るのを待っておる。果たして3月4日頃、中国本土から大規模の軍隊が台湾に侵攻し、台湾人を大量に殺すなど大きな傷を残しました。その時殺されたのはほとんどあの時のエリート、非常に有名な弁護士から大学の先生からね、いろんな高い地位の人間、その時ほとんど殺された。
台湾がいわゆる台湾が非常に断続した形になったのはその時なんだ。それ以後台湾は何も出来ない。李登輝はあの時台湾大学4年生の学生でしょ。兵隊から帰ってきたばっかり。それが結局、ある時が来るまで台湾は結局何も出来なかった。台湾人を大量に殺すなど大きな傷を残しました。以後、蒋介石国民党政府は徹底した排日教育を行いました。蒋介石総統は中国・日本に対して、「恨みに恩を以ってす。」と日本から何も賠償金をとらないなどと、日本人は盛んに手を叩いてね。ことに右翼の日本人はこれを非常に賛美しておった。
学校教育では、偉大な中国の歴史が教え始められました。この、偉大な中国の歴史と言ったら5000年の歴史、あとで時間があったら皆さんに言いますけど、5000年の歴史というのは皇帝統治、皇帝が統治していた歴史です。その歴史というのは、いわゆる法統、法律の統制、法律、法統ね。みなさん中国社会は日本と違って、日本の江戸時代は、いわゆるその、王権の分裂した藩で治めておった。中国では皇帝がずっと統治していた。その統治に対しては法統という法律と組織というのが存在している。皇帝型統治、大中華帝国というのは、その時、大中華帝国ね、名前が変わっても、朝廷が変わっても同じことやらんといけない。清朝は前のいわゆる明の状態に従わなくてはいけない。明はその前のいわゆる、いわゆる元の時代に沿わないといけない。元は、宋の時代、こういう制度は変わらない。人が替わっている、皇帝がかわる。なぜかと言うと、結局腐敗している。人民が起きて革命が起きても易姓革命、名前だけが変わる革命、これが皇帝型統治、これがね、中国の歴史。
日本の新聞も台湾もどうしてこういう所を・・・・・。一生懸命付け込んで、中国を学べ日本語を言ったら処罰される。日本語を言ってはいけない。日本の新聞も雑誌も見られないし、映画も見られない。すごい排日教育が徹底的に行われた。その時同時に、38年間という戒厳令がひかれる。そして、この言論の自由も無い。いわゆる結社の自由も無い。すべてが取られた。そのため日本統治時代に生まれ育ち徹底した日本びいきである70代以上とは対照的に、50代60代はもう反日的になってしまっている。反日的になってしまったこの連中たちが、いわゆる私が総統を辞めた後の連中たちなんだ。つまり、2000年以降のこの総統とこの連中たちというのは、あの時にこういう反日的な、すごい酷い教育を受けた人間達ですよ。その間に私が総統になった12年間の間に、つまり新たに歴史教育からいろんな教育の自由を始めた。この連中たちというのはずーっと40歳以下になりますね。また彼らの世代の者が台湾総統になると、民主主義に逆行し、自分が皇帝にでもなったかのように振舞うのはそのためである。それが今と前とね。民進党と言って皆さんはこれは台湾独立党だ台湾人のためだと考えるが、昔の皇帝型統治だよ。皇帝だ中国教育受けたんだよ。
だからいいかね。教育が非常に大事だと言う事が分かる。戦後における日本の教育、結局日本における教育、あのいわゆる日教組による強制、アメリカ式の強制、それが日本としては一生懸命変えなくっちゃいけない。安倍総理によって結局教育改革論を取り出しても中々、そういうように持ってゆけないという、そういう状態。台湾のアイデンティティ、台湾人は断言しているか?大変ですよ。
私は1988年に中華民国総統に就任しました。わたしみたいな人間が総統になったというのはおそらく神様以外だれも知らないんだ。本当に偶然だよ。偶然な機会というのは神様以外、誰も作ってくれない。李登輝が中華民国の総統になったから、台湾人とは何かという問題を私は取り出した。台湾人って何だ?つまり台湾人の主体性というのは常に中心にあるテーマですから、台湾の主体性をどういう風に置くか?そこに司馬遼太郎さんと話をして出てきたのは、台湾紀行にも書いてありますけれどね。台湾人に生まれた悲哀、結局、悲哀その問題をその時初めて言い出した。1993年、もう私が総統になって叩かれてもね、結局ね、あの沈まない。結局ね、たたかれてもね、落伍しない。いわゆるそういうような状態になったものですから、この1993年に司馬遼太郎さんにお会いした時テーマになりました。そのテーマというのがつまり、台湾人に生まれた悲哀、台湾人は歴史をおそらく何千年も持っている。文字があるこの歴史は400年近くなりますけど、自分の政府を持った事ない。ね。日本時代、台湾を植民地として台湾を一瞬のうちに近代社会に作り上げたけど、台湾人はこの自分の政権を持っていなかった。ここらへんに旧日本の結局残したものは何かというと、結局教育だけ、そして台湾の近代化、これが日本のね、台湾に残したもんだ。