李登輝元総統追悼:秋田魁新報が2007年秋田ご訪問を詳報 李元総統の弔電

 9度にわたる李登輝元総統のご来日の中で、もちろん2001年の初来日は大事ですが、2007年の奥の細道探訪の旅と2015年の国会議員292人を前に講演されたご訪問は画期的でした。

 2007年ご来日の意義は次の7つとなるかと思います。画期的な所以です。もちろん、中嶋嶺雄先生という得難い方が招聘者となったことがご来日を実現した最大の要因でした。

1、ノービザでの初来日実現。2、東京訪問の実現。3、講演の実現。4、記者会見の実現。5、念願の「奥の細道」散策の実現。6、靖国神社初参拝の実現。7、中国政府の不干渉の実現。

 7月30日に李登輝元総統が身罷られ、8月1日付の「秋田魁新報」が中嶋先生と李登総統の親交のはじまりや、中嶋先生が2013年2月に亡くなられたときに李登輝元総統が懇篤な弔電とともに「知音益友」という扁額を贈られたことなど、かなり詳しく、それも正確に伝えています。

 下記に2013年3月17日に国際教養大学で行われた大学葬に李登輝元総統がお送りした弔電とともに、秋田魁新報の記事をご紹介します。

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◆李登輝元総統から中嶋学長夫人への弔電

 中嶋先生! 先生の訃報を耳にしたときの衝撃は忘れられません。かけがえのない友人を失ったのは私、李登輝個人のみならず、台湾は偉大なる友人を失ったのです。

 日台断交に前後し、日本が挙って中国の文化大革命を礼賛していた時代に、ひとり台湾に想いを寄せて下さったのが先生でした。先生の勇気と見識に私は畏敬の念を覚え、副総統時代、中南米訪問の帰途に東京で初めてお目に掛かったのがお付き合いの始まりでした。それから20数年、先生は「アジア・オープン・フォーラム」を主宰し、日本の東アジア理解に大きな影響を与えました。

 先生との思い出で何より思い出されるのは、2007年5月、先生ご夫妻と奥の細道を共に歩いたことです。この訪日は、改めて日本の文化の偉大さと奥深さを私に教えてくれました。なかでも私が目を奪われたのが、先生がその人生の最後に心血を注いで育て上げたと言ってもよい、国際教養大学でした。その成果は10年を待たずに発揮され、今や就職率では日本でナンバーワンの優秀な大学に育っていると聞いております。

 中嶋先生! 李登輝は、台湾は、先生が寄せて下さったご厚情を決して忘れることはないでしょう。台湾の永遠の友人である中嶋先生、どうか安からにお休み下さい。

                                        台湾元総統 李 登輝

—————————————————————————————–台湾・李元総統と教養大・中嶋前学長 交流30年の深い絆【秋田魁新報:2020年8月1日】https://www.sakigake.jp/news/article/20200801AK0005/

写真:談笑する李氏(手前右から3人目)と中嶋さん(同2人目)=2007年5月31日、東京都の江東区芭蕉記念館(日   本李登輝友の会提供)写真:李氏から贈られた額。国際教養大の図書館に飾られている(同大提供)

 7月30日に死去した台湾の李登輝元総統は2007年に来日し、秋田市で国際教養大学の特別講義を行ったり、角館や田沢湖などの観光地を巡ったりした。本県を訪れた背景には、李氏と同大初代学長の故中嶋嶺雄さんが約30年にわたって結んできた深い絆があった。

 2人の出会いは、中嶋さんが書いた毛沢東に関する論文がきっかけだった。掲載雑誌を読んだ李氏は、中嶋さんの深い分析力に感銘を受け、ぜひ会いたいと打診。1985年に都内で顔を合わせた。

 2人をよく知る同大名誉教授の勝又美智雄さん(73)によると、中嶋夫妻はその後、毎年のように台北市にある李氏の自宅を訪れ、家族ぐるみで親交を深めた。互いについて、中嶋さんは「世界で一番信頼できる政治家」、李氏は「本物の学者」と評価し合っていたという。

 勝又さんは「2人とも誠実で責任感が強く、日本や台湾といった生まれ育った場所について学び、アイデンティティーを持つことを大切にしていた。人柄だけでなく考え方も似ていたことが、互いの絆を固いものにしたのではないか」と話す。

 個人的な交流の他にも、89年に始まった台湾と日本の財界人や学者の交流事業を発起人として立ち上げたり、日本と台湾の関係や外交のあるべき姿について対話した本を残したりしている。

 来日した李氏が2007年6月に本県を訪れた際には、李氏が好きだった松尾芭蕉の「奥の細道」ゆかりの地であるにかほ市象潟町の蚶満寺や、秋田市雄和の国際教養大などを視察した。同市のプラザクリプトンで開かれた特別講義には、学生や地域住民ら約400人が詰め掛けた。

 当時、秘書室長として特別講義を取り仕切った磯貝健副学長(57)は「李さんは周囲への気配りを欠かさない素晴らしい人柄だった。中嶋前学長が李さんを秋田へ招いたのは、奥の細道が好きな友人に思い出をつくってあげたいという気配りがあったのではないか」と考えを巡らせる。

 中嶋さんが13年に亡くなり、李氏から「李登輝個人のみならず、台湾は偉大なる友人を失った」という弔電と共に、「知音益友」と書かれた額が届いた。「互いに気心が知れ、交わってためになる友人」という意味で、この額は同大図書館に今も飾られている。

 勝又さんは李氏の死去について「97歳までよく頑張られたと思う。台湾の象徴的な人だっただけに現地の人々の喪失感は大きいだろう。今後も2人が築いてきた友情のように日本と台湾の良い関係が続くことを願う」と語った。

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