李登輝元総統追悼:本会の梅原克彦・常務理事が産経新聞に追悼コメント

 昨日の本誌で、本会理事で群馬県支部の山本厚秀・前支部長が産経新聞の取材に追悼コメントとして「公私の区別にこだわる方だった」「常に公人の立場でいることを心がけていた」などと述べていることをお伝えしました。

 本会常務理事で仙台市長をつとめた梅原克彦氏は、仙台市長後に秋田の国際教養大学教授を経て、現在は台湾・台南にある中信金融管理学院教授の任にありますが、2007年(平成19年)5月30日から6月9日にかけ、曾文恵夫人、令孫の李坤儀さん、友人として黄昭堂氏(台湾独立建国聯盟主席・昭和大学名誉教授)を伴われ、念願だった「奥の細道」探訪のため来日された折、仙台市長の任にありながら、移動車輛の手配などに力を尽くしています。

 このときのご来日は、アジア・オープンフォーラム世話人代表で国際教養大学学長と理事長を兼務していた故中嶋嶺雄氏による招聘で、中嶋氏からの内々の依頼により、当時、仙台市長だった梅原克彦氏が裏方の労を取り、前述した車輛の手配などを担当されたのでした。

 梅原氏は後日「李登輝先生が来日されることが事前に洩れてはいけないので結構しんどかったですが、お泊りになった奥松島の『松島佐勘松庵』をお訪ねして李登輝先生や奥様、中嶋先生などと歓談し、心から寛がれている様子の李登輝先生の様子に安心しました」と話しています。

 この2007年の仙台ご訪問のときを述懐して、梅原氏は産経新聞の取材に「『奥の細道』を歩くという李登輝さんの長年の夢が実現し、心安らぐひと時を過ごされた」と、懐かしんで追悼のコメントを述べています。

 李登輝元総統は2015年(平成27年)7月にも再び仙台を訪問されています。東日本大震災の被災地の方々を慰め、また松島に建立されたご夫妻句碑を拝見することなどを目的とした訪問でした。被災地では、現在も岩沼市市長の菊地啓夫氏にご案内していただき、産経新聞は菊地市長の追悼コメントも掲載しています。

 なお、李登輝元総統は総統退任後の翌年2001年から2018年まで9回来日されています。別途、簡単にご紹介します。一国の元首経験者で、来日のたびに日本各地を訪問された方は李元総統をおいて他にいないのではないでしょうか。日本人に李登輝ファンが多い理由もこのあたりにあるのかもしれません。

—————————————————————————————–【李登輝氏死去】被災地の首長らが語る元総統の「素顔」【産経新聞:2020年7月31日】https://www.sankei.com/article/20200731-EJ5TCWXWRVM2NGRO5UA6W4WJ2U/

 7月30日に97歳で死去した台湾元総統の李登輝氏は生前、「奥の細道」の足跡をたどるため東北を巡ったほか、東日本大震災の被災地を訪れ、地元住民と交流を深めた。「心安らぐひと時だった」「被災地への思いに感謝している」。当時を知る関係者は李氏の素顔を振り返るとともに、追悼と感謝の言葉を寄せた。

 李氏は総統退任後の平成19年5〜6月に岩手、宮城、秋田、山形の東北4県などを巡り、松尾芭蕉ゆかりの地に足を運んだ。19年に李氏が来日した際、仙台市長を務めていた梅原克彦氏(現・台湾の中信金融管理学院教授)は「何十年にわたって台湾の自由と民主のために戦い抜いてこられた方。(宮城を訪問した際は)心からリラックスしている様子だった」と当時を振り返る。

 当時、JR仙台駅に到着すると約100人の歓迎を受け、日本語で「ありがとう」と応じ握手を交わしていたという。秋田市訪問の際には国際教養大学で講演。李氏が講演した唯一の日本の大学となった。梅原氏は「『奥の細道』を歩くという李登輝さんの長年の夢が実現し、心安らぐひと時を過ごされた」と話した。

 李氏は27年、震災の被災地である岩沼市を訪問。犠牲者を慰霊する「千年希望の丘」のモニュメントに献花した。李氏に被害状況を説明した岩沼市の菊地啓夫市長は「被災地を思い、モニュメントに花を手向けてもらった。ありがたかった」と当時を振り返る。

 千年希望の丘の周辺には震災前、多くの人々の暮らしがあったことを菊地市長が李氏に説明すると、李氏は「被災した人々の生活は大丈夫か」と被災者に思いをはせたという。

 訪問当時、李氏は「千年希望の丘に植樹をしたい」と話したが、実現はしなかった。菊地市長は「(死去の)ニュースを聞き、残念だった。被災地に心を寄せてもらい感謝している。植樹が実現しなかったことは心残りだ」と語った。

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