一昨日の読売新聞が台湾少年工の同窓会「台湾高座会」の李雪峰会長を紹介していま
す。下記にその全文をご紹介します。
この台湾高座会と15年以上の長きにわたって交流しているのが、台湾少年工たちが働
いていた高座海軍工廠があった神奈川県大和市にある高座日台交流の会(佐野た香会長)
です。昨年11月14日に台湾・台南市で開かれた第20回大会にも参加しています。
石川公弘事務局長(本会理事)がご自分のブログ「台湾春秋」で「2月3日の読売新聞
2面の「顔」に馴染みの名を見つけた。私が『台湾の兄貴』と慕う台湾高座会会長の李
雪峰(りせっぽう)さんだ。李雪峰さんは大戦中、私の父が高座海軍工廠で寄宿舎の舎
監をしていたとき、その下で寮長だった人、親子二代の付き合いである」と、この記事
を紹介しています。
そして最後に「記事を読んだ私は、すぐに台湾の李雪峰さんに電話を入れた。そして
記事をコピーし、短い添え書きをしてファックスした。『なかなか簡潔な良い文章と思
います。とくに最後のところが、泣かせます』と書いた。実際に、涙が滲み続けたから
である」と記しています。
すでに本会会員のお手元に届いている機関誌『日台共栄』2月号でも、石川理事が「台
湾高座会との深く長い交流」と題し、昨年の第20回大会に参加した模様を執筆していま
す。近々、本誌でもご紹介します。 (編集部)
■石川公弘氏のブログ「台湾春秋」
http://blogs.yahoo.co.jp/kim123hiro/archive/2008/2/4
【2月3日 読売新聞 2面「顔」】
昭和戦争末期、日本の植民統治下の台湾から神奈川県の高座海軍工廠に渡り、戦闘機
「雷電」の生産に汗を流した少年たちがいた。1943年秋、その一員に志願して日本へ行
った。日本名は森本雪夫。当時17歳。指導役だった関係から、同窓会「高座会」を結成
し、会長を務める。
「働きながら学べる」として、台湾各地の成績優秀者が少年工に選抜され、計8419人
が労働力不足だった日本の軍需産業を支えた。「寒い日本では食べ物が台湾より少なく、
故郷が恋しく皆で泣いた。それだけに、同じ釜の飯を食った連帯意識が強いんです」
戦況悪化につれて各地の工場を転々とし、空襲で死亡した仲間も多かった。仲間内の
会話は今も主に日本語だ。忘れられない思い出は、地元の農家から、サツマイモなどの
差し入れを受け、「高座の情」に触れたことだという。
戦後、台湾に戻り、各界で活躍する少年工出身者の同窓会結成が認められたのは、戒
厳令解除の翌88年。昨年秋の20周年会合には約800人が集まった。2003年、高座での勤
務を示す在職証明書を厚生労働省から受け取った。
一時は3400人いた会員も、今では2000人余り。平均年齢は79歳。近年は日本側と連携
して自治体交流の橋渡し役を担う。「19年間、日本人だった」との考えから余生を日台
交流に費やすつもりだ。
「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」。日本を思う気持ちは人一
倍強い。 (台北支局 石井利尚)
*「昭和戦争」という表現は初めて目にした。これはいただけない。台湾少年工たちが
戦ったのは「大東亜戦争」である。そう記さなければ、戦歿した60名の台湾少年工は
うかばれまい。いい記事なのに、何を恐がっているのだろう。 (編集部)