7月17日は2017年に満90歳で亡くなられた台湾歌壇代表の蔡焜燦(さい・こんさん)先生のご命日でした。仏教でいえば五回忌、神道でも五年祭にあたります。台湾歌壇ではいまでも蔡焜燦先生を代表とし、新たな代表を選任していません。
いささか遅くなりましたが、このご命日にあたり、蔡焜燦先生にとても可愛がられていた李登輝元総統秘書の早川友久氏がフェイスブックに蔡先生の思い出をつづっていましたのでご紹介します。
フェイスブックには見出しがついていませんでしたので、「日本語族の『台湾代表』蔡焜燦先生を偲ぶ」としてご紹介します。
なお、早川氏の文中にでてくる「息子さん」とは、日本に帰化した次男の清水旭(台湾名:蔡裕●)さんのことのようで、清水さんは故郷の台湾に単身赴任しておりましたが、惜しくも昨年7月4日、お父上の一周忌を目前に帰幽されました。まだ64歳でした。改めて、蔡焜燦先生と清水旭さんの御霊安かれとお祈り申し上げます。(●=析の木と斤の間に日)
—————————————————————————————–日本語族の台湾代表、蔡焜燦先生早川友久(李登輝元総統秘書)https://www.facebook.com/ritoukitaiwan
蔡焜燦先生が亡くなられて早4年。いま振り返ってもどれほどまでに可愛がっていただいたか、言葉では言い尽くせない。
6月4日、日本からのワクチン到着に台湾中が湧いた。
ある知人がタクシーを降りようとすると「料金はいらない」といわれた。理由を聞くと「あなたが日本人だから」という。別の知人が、戻ってきたクリーニングの伝票を見ると「日本ありがとう。今回は無料です」と書かれていた。台湾南部のかき氷店には「日本人無料」と張り出された。大使館にあたる交流協会台北事務所のロビーは台湾全土から贈られた花で埋まり、対応した職員はうれしい悲鳴をあげていた。
そんな光景に接して、思い出したのは蔡焜燦先生が折にふれて聞かせてくれた、1999年に台湾中部で起きた「921大震災」のあとのお話。世界中どこの国よりも真っ先に台湾へ駆けつけ、最新鋭の機器で行方不明者を探し、遺体で見つかると「助けられなくて申し訳ない」と整列して見送る日本の救援隊の姿は、現在でも台湾で語り草になっているほどだ。
そんなとき、息子さんが蔡先生に「なんで親父がいつもいつも日本の肩を持つのかやっと分かった」と言ってくれたという。戦後、国民党率いる中華民国によって徹底的な「中国化」が強いられた台湾社会には、世代間による「断絶」が起きていたのだ。
それでもなお日本を評価し、日本に想いを寄せ、日本に期待し、日本を励まし続けてくれたのが、蔡先生であり、李登輝総統であり、同じ時代を生きた日本語族の人たちだった。蔡焜燦先生はまさにその「台湾代表」だったといえよう。
だから、ちょうど10年前の東日本大震災で、日本人自身が驚くほどの有形無形の支援が台湾から届いたことも、「恵みの雨」と形容された日本からのワクチン寄贈を台湾の人々が喜んでくれるのも、その根底には、戦後何十年も変わらず日本に対する愛情と信頼を寄せてくれた蔡焜燦先生のような人たちがいたからだ。
写真は2011年、って書くと蔡先生に怒られるので、平成23年7月3日、台北を訪れた小野田寛郎ご夫妻の歓迎午餐会のときの一葉。
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