4年に一度のラグビーワールドカップ開幕が目前に迫った。日本で、そしてアジアでも初めての開催である。そんな矢先、日本ではほとんど報じられなかったがある人物の訃報が報じられた。1995年、第3回ワールドカップで南アフリカ代表として出場したチェスター・ウィリアムズ氏が49歳で急逝した、というものだった。
彼の名を特に記憶していたのには理由がある。95年当時、高校生だった私もまた楕円球を追いかける毎日を送っていた。テレビ中継とはいえ、世界最高レベルの試合を目にできる機会はまたとない。そのため、時差の関係でほぼ全ての試合が真夜中の放送であっても、文字通りかじりつくかのごとく、全中継をこの目で見ていたのだ。
1995年、第3回となるワールドカップは初めて尽くしだった。それまでアパルトヘイト、いわゆる人種隔離政策を続けてきたために、長年にわたり国際大会の開催はおろか出場さえ許されなかった南アフリカ代表チームが初出場するとともに、開催国となった大会だったからである。
世界は南アフリカ代表チーム「スプリングボクス」に注目した。1948年のアパルトヘイト施行以来、数十年にわたって国家代表チーム同士の試合が行われていないため、その実力はベールに包まれていたが、ニュージーランド代表の「オールブラックス」以上との噂であった。
それまで南アフリカにおいてラグビーは「白人のスポーツ」だった。黒人層にはボールひとつあれば出来るサッカーのほうがむしろ好まれていたという。実際、このときの代表チームの選手もまたほとんどが白人であったが、唯一の黒人選手が「ブラック・ダイヤモンド」と呼ばれ称賛されたウイングのチェスター・ウィリアムズだったのである。
初出場にして地元開催となった南アフリカ代表はチェスター・ウィリアムズの活躍もあって、下馬評通り快進撃を続け、決勝戦では世界最強と謳われたNZ代表オールブラックスと相まみえた。ヨハネスブルグで行われた決勝は、ワールドカップ史上初の延長戦にもつれこみ、文字通りの死闘を南アフリカが制して優勝を勝ち取ったのである。
セレモニーで、優勝カップを手渡したのは、開催国南アフリカのネルソン・マンデラ大統領であった。『インビクタス 負けざる者たち』というタイトルで映画化もされたから、この前後のストーリーをご存知の方も多いだろう。反アパルトヘイト活動家として27年ものあいだ投獄されていたが、1990年に釈放され、のちに黒人として初めての大統領となった人物である。
白人と黒人の壁を取り払い、様々な人種が共生する「Rainbow Nation」を実現させたマンデラ氏の感慨はいかばかりだっただろうか。白人が主体の南アフリカ代表チームのなかにあって、唯一の黒人選手として活躍したチェスター・ウィリアムズこそ、この融和を体現する人物であったのだ。
ところで、これまで台湾や「台湾民主化の父」李登輝をテーマに原稿を書いてきた私が、なぜ突然南アフリカやマンデラ氏を取り上げたのかは理由がある。
◆互いに尊敬しあっていた李登輝とマンデラ
先月、日本から李登輝を表敬訪問するお客さんがあった。地方議員や企業の経営者などで構成された訪問団だったが、あいにくその前日に李登輝は体調を崩してしまい、表敬訪問はキャンセルとなってしまった。
ただ、突然のキャンセルでは皆さんのスケジュールに穴を開けてしまうことになる。そこで、力不足は承知で「秘書の私でよろしければ、出来るかぎりお話しさせていただく」ということで私が対応することになったのだ。
会の終了後、参加者の若い女性と話す機会があったのだが、そこで非常に大きな示唆を受けた。日本でコンサルタントや企業文化の再啓発を促す仕事をされている世羅侑未(せら・ゆみ)さんは、マンデラ氏の南アフリカに強い関心を持ち、毎年スタディツアーを主宰して南アフリカを訪問しているという。
彼女は言う。
「マンデラ氏のリーダーシップや南アフリカを民主化、平等化に導いた手腕は、台湾を民主化させた李登輝元総統と非常に似通ってるのではないか。だからぜひ李登輝氏の話を聞いてみたかった」
私もおぼろげにマンデラの功績の一端だけは知っていたが、彼の生涯を調べてみると、驚くほどに李登輝と共通する境遇を経ていることがわかる。クリスチャンだったことや、マンデラも李登輝も180センチをゆうに超える高身長だったという共通点もあるが、なによりも、この二人は、一時期同じく自由や民主主義を標榜する国家の指導者として国家を牽引し、互いに尊敬しあうほどの仲だったのだ。
マンデラは1918年に首長の息子として、李登輝は1923年に地元淡水の名士の次男として生まれた。同じく高等教育を受けた両者だが、日本や台湾では「戦後」となる1950年代以降、二人の足跡はやや異なる道を歩むことになる。
戦後、京都帝大での学業を切り上げて台湾へ戻った李登輝は、台北帝国大学から名前を変えた台湾大学へ編入。農業経済の学者としての道を歩み始めた。一方、マンデラは1948年以降、急速に構築されたアパルトヘイト体制に抗い、弁護士として活躍する一方、反体制運動に深く身を投じて黒人の権利向上を目指して政府を相手に戦っていた。その結果、マンデラは逮捕され長く投獄されることとなる。
李登輝を取り巻く環境はどうだっただろう。戦後台湾では「白色テロ」と呼ばれる粛清の嵐が吹き荒れた。占領統治の邪魔になる、日本時代に高等教育を受けた知識層が狙い撃ちにされた。事実、京都帝国大学で学んだ李登輝の経歴は、いつ国民党政権にしょっぴかれてもおかしくなかった。「法治」でなく「人治」がまかり通った時代、疑いをかけられることイコール命を落とすことと同義だったといっても過言ではなかった。
自然、李登輝を含め多くの台湾人が政治とは距離を置く生活を余儀なくされた。李登輝もまた、政治とは離れた学問の世界で農民の生活向上のための研究を続ける毎日を送っていた。その間、二度にわたる米国留学も果たす。米国で博士号を取得した洋行帰りの学者を待っていたのは台湾大学教授の椅子だった。
一方、反体制運動に携わったマンデラは、獄中での日々を送る。その年月たるや27年。気の遠くなるような月日である。
台湾でも、政治犯として捕らえられた人々が台東の沖合に浮かぶ緑島の収容所に閉じ込められていた。でっちあげの罪状、形ばかりの裁判で、10年あるいは20年の刑期を言い渡された台湾の政治犯たちもまたこの島で長い時間を過ごすことになる。
司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾紀行』に博覧強記の「老台北」として登場する蔡焜燦先生は、私と顔を合わせるたびに「いつか外務大臣になって日台の国交を樹立しろ」と言いながら可愛がってくれた方だが、蔡先生の弟君である蔡焜霖さんもまた高校時代に「読書会に参加した」という事実無根の罪状で緑島に10年幽閉されていた。
蔡さんは10年という歳月を「私は緑島留学の博士課程ですから」と嘯くが、青春時代の年月を奪われるような人生を私たちはどのようにトレースしていくべきなのだろうか。
獄中に繋がれたマンデラはやがて、反アパルトヘイト運動の象徴的存在としてみなされていく。同時に、国際社会からもアパルトヘイト政策に対する批判の声や、マンデラの釈放を求める声が高まり、当時の南アフリカ政権もその圧力に抗えなくなりつつあった。
蒋経国総統の時代、米レーガン政権が台湾の人権状況に重大な関心を寄せていると声明を発表し、国民党はそれまでのような容赦ない無差別な粛清を容易には続けられなくなっていった状況と類似している。
話は前後するが、まだ行政院長(首相に相当)だった蒋経国(のちに総統)は、農村の復興や石油化学工業の推進、職業訓練などを任せられる人間を探していた。その目にとまったのが新進気鋭の学者として名を知られるようになっていた台湾大学教授の李登輝だった。
ニュージーランドへ講演旅行中、李登輝は台湾から緊急の電報を受け取る。「今般、政務委員(無任所大臣)に任命されたから至急帰国するように」との命である。こうして学問から政治の世界へと入った李登輝は蒋経国からその手腕を認められ、台北市長、台湾省主席、副総統へと順当に政治の世界における階段を上がり続けていくのである。
◆深刻な対立を融和へと導いた二人の指導者
南アフリカでマンデラが釈放されたのは1990年だった。当時のデクラーク大統領は白人であったが、もはや南アフリカが国際社会の圧力に抗いアパルトヘイト政策を続けていく余地も体力もなかったといえる(アパルトヘイト政策の正式撤廃は翌91年)。
そして1994年、南アフリカで行われた史上初の民主的選挙で、マンデラは黒人初の大統領に選ばれる。就任式には李登輝も台湾から出席している。「民主主義と自由という同じ価値観を標榜する国」どうし、最大限の敬意であった。
マンデラは大統領就任後、黒人と白人がともに融和する「Rainbow Nation」の構築に腐心した成果は、翌95年の第3回ラグビーワールドカップで結実する。それまで白人のスポーツとされてきたラグビーに全国民が熱狂し、黒人選手のチェスター・ウィリアムズの活躍に、誰もが喝采を送ったのだ。
1996年、李登輝は台湾初の総統直接選挙を実施する。それまでは国民大会代表による間接選挙だったが、李登輝は民主化の完全なる定着と実現のためには「さらなる一歩が必要」と考え、国民党内の反対勢力を押し切っての実現であった。
党内には「政権を手放す可能性のある制度をむざむざ導入しなくとも」という反対の声がかまびすしかったそうだが、李登輝は「日本教育で徹底的に叩き込まれた」という「公のために奉仕する」精神をフルに発揮して押し切った。
結果、選挙で国家の指導者を選ぶという完全な民主主義の実現を世界にアピールすることが出来たわけで、さらに4年後には中華圏においては歴史的にも初めての「平和的な政権交代」の実現へとつながっていくのである。
黒人と白人が対立してきた南アフリカ同様、台湾もまたエスニックグループによる対立が深刻な「移民国家」であった。
もともとこの台湾という島の主だったのは、日本時代に「高砂族」と呼ばれた原住民だったし、数百年前に中国大陸から渡ってきた本省人と呼ばれる人々がいる。また、少数グループの客家と呼ばれる人々や、戦後国民党政権とともに台湾へやって来た外省人がいる。
戦後の国民党による占領統治があまりにも腐敗していたため、外省人と本省人との軋轢は非常に深刻だった。それまでの日本時代、まがりなりにも「法治」の概念を経験していた本省人にとっては、「人治」の国民党政権とはまさに「文明の衝突」であったし、その結果不幸にも起きたのが228事件と、それに続く白色テロの時代であった。
李登輝は戦後数十年にわたって続いてきたこの「族群対立」や「省籍矛盾」と呼ばれるエスニックグループ同士の対立をいかにして融和するかに心を砕いてきた。
そのために李登輝が総統在任中に掲げたのが「新台湾人」という概念だ。その定義は、李登輝に言わせれば「台湾にいつ来たか、という時間は関係ない。台湾の米を食べ、台湾の水を飲み、台湾こそが自分の故郷だと思う人間であれば、それはみな台湾人だ」という内容で、台湾にやって来た時代が異なることで対立する社会への融和を呼びかけたのである。マンデラが実現した「Rainbow Nation」同様、李登輝もまた「新台湾人」の概念を提唱することで台湾社会の融和を進めたのである。
◆「自由」と「民主主義」の価値
新生南アフリカが、アフリカ最大の経済大国として歩み始めるのを見届け、マンデラは2013年に95歳で亡くなった。
李登輝はまだ健在ながら、まもなく97歳を迎えようとしている。いま現在、台湾も南アフリカも、人種によって差別されたり、政治的主張によって政治犯として捕らえられる恐れもなくなった。両国とも完全な自由かつ民主主義国家として今も歩みを進めている。
しかしその陰には、白色テロの時代のなか、国民党から身を守るため親友の家の倉庫の二階に匿ってもらった李登輝や、27年もの間、獄に繋がれたマンデラといった先人たちの、我々には想像もつかない、途方も無い時間を費やした努力と幾多の犠牲が存在する。
我々は、いつしか毎日を送るなかで、この自由や民主主義というものが、天から降ってきたかのような、ごくごく当たり前のものだというように勘違いしていやしないだろうか。私たちに課せられた責務は、この自由や民主主義といった至高の価値観の重要さを再認識し、いかにして維持していくかを今一度考えることではないだろうか。
以前の原稿にも書いたが、私はもともと、家族や親戚にも台湾と縁があったわけではないし、商売などで台湾と行き来しているわけでもなかった。ほんの偶然の旅行が発端となり、たくさんの縁をもらい、その後、台湾で学ぶ機会を得て、李登輝の側に仕える幸運をもらった。
1995年当時、ラグビーに熱中するばかりの高校生だった私は、テレビ越しにマンデラが優勝カップを高々と掲げ、勝利した南アフリカ代表チーム「スプリングボクス」に授与する光景をこの目で見ている。
台湾の李登輝と南アフリカのマンデラ。一見、なんの繋がりもないような両者だが、あたかも不規則にバウンドした楕円球の軌跡のごとく、私の人生のなかで一本の線のように繋がった一幕だった。
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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、台湾総統府国策顧問だった金美齢氏の秘書に就任。2008年、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。