日本初の台湾語辞典を作った小川尚義  古川 勝三(台湾史研究家)

【nippon.com「台湾を変えた日本人シリーズ」(最終回):2022年8月21日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02179/

*古川勝三(ふるかわ・かつみ)氏が5年前から「nippon.com」で連載してきた「台湾を変えた日本人シリーズ」 が、郷土愛媛の先達で「台湾言語学の先駆者」小川尚義(おがわ・なおよし)をもって最終回を迎えた。取り 上げた人物は24人にのぼるという。本誌でもそのほとんどを紹介させていただいた。日本統治時代の台湾への 関心と認識を深めていただいたことに心から御礼を申し上げ、下記に最終回をご紹介します。

◆台湾人とのコミュニケーションのために

 愛媛県松山市の「愛媛人物博物館」は、設立当初から愛媛が生んだ偉人として小川尚義(おがわ・なおよし)の業績に関する展示をしている。「台湾言語学の先駆者」として言語学の世界では高く評価されているが、小川の業績を知る愛媛県民はほとんどいないだろう。

 1895(明治28)年に台湾を版図に入れた日本は、統治方式について悩んだ末、最終的には英国式とフランス式の折衷案を取り入れた。台湾総督を頂点にした英国式の制度に、運用ではフランス式の内地延長主義を用いるものだった。統治方法は固まったが現地の台湾人といかにコミュニケーションを取るかという問題があった。

 現在の台湾で標準語として使われる北京語は、敗戦による日本の台湾放棄後に入ってきた蒋介石ら国民党が導入したものだ。日本領有時の庶民の言葉は、福建省南部移民が使っている●南語や広東省からの客家移民が使っている客家語であった。●南語は今日、台湾語とも呼ばれる言葉である。(●=門構えに虫)

 ●南語が分かる日本人は極めて少なかった。しかも、一般の台湾人は学校に行くことがまれで、読み書きができない。先住民族は部族ごとに言葉が違い、文字を持たず、学校に通う習慣もない。そのため、日本政府が台湾統治初期から取り組んだのが、本シリーズでも紹介した伊沢修二の提案で設置した「日本語伝習所」で台湾人に日本語を教える施策である。

 1896(明治29)年10月に帝国大学文科大学を卒業した青年が、台湾総督府学務部に就職した。当時27歳の小川尚義である。小川は編纂課に配属され、主任として国語伝習所で使う教科書を作成することになった。

◆正岡子規から送られた餞(はなむけ)の一句

 小川は1869(明治2)年、現在の愛媛県松山市勝山町で、士族の丹下尚逸と妻ムラの三男として生まれた。3年後には小川武一の養子に迎えられた。1878(明治11)年に松山中学に入学、この学校には母方の親戚にあたり後に帝国海軍の参謀となる秋山真之や1年後輩の後の大蔵大臣・勝田主計がいた。

 小川は、松山中学を卒業すると第一高等中学校(第一高等学校)予科に入学。一高からは、2歳年長の夏目漱石や正岡子規が在籍しており、正岡子規とは親しくなった。病気で一時休学したが、本科の文科に進学し、1893(明治26)年9月には帝国大学文科大学博言学科に入学。現代国語学の基礎を創った上田万年教授の薫陶を受けた。

 学生時代の小川はキリスト教を信仰する一方で、天皇の崇拝者でもあった。語学の才能を発揮しドイツ語、英語、ギリシャ語、ラテン語はお手のもので、聖書を読み、牧師の説教を翻訳するアルバイトで学費を稼いだ。小川は養父母の影響で幼少期より能楽に親しみ、16歳頃からは謡曲の稽古を受けていたためか、聞き取る力に優れており発音が実にきれいで、特に英語の発音は外国人が褒めるほどだった。

 3年間の大学生活を終えると、台湾総督府に就職することになった。台湾総督府が上田教授に台湾語辞典を作れる人材の派遣を依頼し、小川が推薦され台湾行きが決まったのである。

 台湾に行くと正岡子規に会えなくなると思った小川は、帰郷する前に訪ねた。正岡はたいそう喜び、一句作って小川への餞(はなむけ)とした。「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句がそれである。この句は四国国体が開催された1953(昭和28)年に、道後温泉本館の姉妹温泉として建設された「道後温泉椿の湯」の湯釜に、「道後のゆ」を「道後の温泉」と変更して刻まれている。

◆称賛を浴びた小川の台湾語辞典

 台湾総督府に就職した。

 小川はまず日常使う日本語6500語を選び出し、それに当たる台湾語に対訳した。小川は教科書編纂に関わる傍らで、台湾語の語彙(ごい)を収集し、膨大な数の対訳記録帳を作っていた。1898(明治31)年、日本初の台湾語辞典「日台小字典」が完成し台湾総督府から発刊された。この辞典は315ページに達し、あいうえお順の日本語表記の下に台湾語の発音と漢字を表記した。学務課では小川の原稿について、総督府国語学校・吉島俊明教授に校正を依頼し、さらに総督府学務課顧問であった元上司・伊沢の取捨裁定まで受けてから印刷に回すという念の入れようであった。

 日本初の台湾語辞典は大きな反響を呼んだ。学務課に就職してわずか1年半の若者の偉業に後藤新平をはじめ総督府の幹部は驚嘆した。「台湾語のことは小川に聞け」と一目置かれたが、小川は満足せず、より良い表記法がないものかと研究を続けた。「日台小字典」が各界で利用され、称賛の声が上がるとともに、語彙がもっと豊富でジャンル別に分類された辞典の要望が広がった。

 「日台小字典」が世に出て6年後の1904(明治37)年には、杉房之助編集の「日台新辞典」が日本物産合資会社支店から発行された。そこで小川は使いやすくてジャンル別に表記された辞典を作ることにした。後藤は、表題を伊藤博文へ依頼し、後藤自身も序文を書いた。1907(明治40)年3月30日に1480ページの大作が完成、台湾総督府から「日台大辞典」の表題で発刊された。

 この辞典は「台湾言語分布図」「台湾語数詞比較表」「緒言」で始まり、その後「台湾語ノ発音」 「凡例」「日台大辞典」と続く。「画引日台字音便覧」「百家姓」「台湾地名」「旧台湾度量衡附貨幣・時間」「血族ニ対スル称呼」などの項目もあり、最後に小川による「本書編纂ノ顛末」で終わる構成になっていた。

◆台湾語研究の第一人者となり台北帝国大学教授へ

 「日台大辞典」が発刊されるやいなや、たちまち在庫が無くなる事態になった。1908(明治41)年には増刷して、1円50銭で販売した。あまりに分厚く重いため、「台湾言語分布図」などを落として「日台大辞典」の部分だけを残した「日台小辞典」を大日本図書から出版し、1円20銭で販売した。小川は台湾語研究に関する第一人者になり、台湾総督府国語学校の教授に就任、台北高等商業学校の校長も兼任した。

 1930(昭和5)年に台北帝国大学が設立開校されると文政学部の教授に就任。小川は台湾語だけでなく先住民族の言語にも関心を持ち、現地へ出向いて調査もした。台湾南部のパイワン族の言葉を集めた「パイワン語集」を台湾総督府編として世に送り出し、「アタヤル語集」と「台日大辞典」上巻も出版した。

 1933(昭和7)年には「アミ語集」と「台日大辞典」下巻を総督府から出版するなど、精力的な研究活動を続けた。35年には先住民族言語の集大成ともいえる「原語による台湾高砂族伝説集」を完成させ、台北帝国大学言語学研究室編として世に出した。この論文が高く評価され翌年には学士院恩賜賞を受賞している。

 松山に帰郷後は、下掛宝生流(しもがかりほうしょうりゅう)の能楽に携わり、後進の指導や公演に参加するかたわら、言語学者としての研究・文筆活動も続けた。1938年に「新訂日台大辞典」上巻を台湾総督府編として刊行し、1947年11月20日に78歳の生涯を閉じた。

 小川の残した「日台大辞典」と「台日大辞典」は、台湾語研究のバイブルとして重宝されただけでなく、台湾の文化や習慣を理解する上で大きな影響を与えた。小川は、まさに台湾言語学の礎を築いた日本人であった。

◆連載を終えるにあたり

 「台湾を変えた日本人」シリーズの執筆を始めてから、気がつけば5年が経過していた。この間、取り上げた人物は24人に達する。改めて振り返ると、いかに多くの優秀な日本人が台湾の近代化に取り組み、成果を上げてきたかに驚かされる。まだほかにもいることは分かっているが、ここで一区切りを付けることにした。これまで本シリーズを読んでいただいた皆さまに、心から感謝します。ありがとうございました。

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