昨日の本誌で藤重太(ふじ・じゅうた)氏の論考「『台湾の決断にむしろ感謝すべき』九州の半導体工場誘致に4000億円の血税が使われた本当の意味」(2月5日付け「PRESIDENT Online」)をご紹介した。
実は、藤氏のこの論考は前編で、翌2月6日に後編として「かつて世界一だった日本の半導体業界が��ぢいま世界一の台湾のTSMCから学ぶべきこと」を発表している。
かつての日本は半導体を部品の一部という扱いをしていたが、いまや港湾やダム、道路、鉄道、上下水道、電気などと同じ、生活や産業などの経済活動を営む上で不可欠な社会基盤、インフラストラクチャーと言ってよい。テレビや冷蔵庫などの家電、携帯電話などの通信機器、ゲーム機器、自動車、医療機器などあらゆる分野において、半導体がなければ作ることができなくなっている。
藤氏は、1980年代に世界をリードした日本製の「日の丸半導体」がなぜ落ちぶれてしまったのか、3つの原因を挙げる。その返す刀で、台湾がTSMC(台湾積体電路製造)などの半導体企業をどのような考え方で育ててきたのかを詳述する。
昨日の本誌で述べたように、藤氏はいま発売されている月刊「正論」3月号にも「半導体産業育てた台湾政治の覚悟」を寄稿している。下記に紹介する後編と重なる内容ではあるが、前編の論考からも、誘致批判派の的外れな議論や日本にどのようなメリットがあるのかなども取り込んでコンパクトにまとめられている。
「正論」3月号も併せて読んでいただければ、藤氏の日本へ寄せる思いは確実に伝わってくると思う。
ちなみに、藤氏の後編が掲載された2月6日、台湾の中央通信社は「経済部、日本との連携促進へ」という見出しを掲げ、下記のように報じていた。
<経済部(経済省)は今年、日本との連携をさらに促進する方針だ。同部官僚は、日本は半導体の材料や製造装置の技術が優れているとし、台湾の半導体産業とは相補的な関係にあると指摘。台湾企業と日本企業にとって互恵的な投資になる上、台湾の半導体産業をより健全にすることができるとも話した。>
この台湾経済部官僚の談話にも、日本と台湾が半導体産業においては相補的な関係を築くことができるという、藤氏の思いと通じる台湾側の日本への思いが読み取れる。日本は台湾の誠意に応えるべく、誠意をもって台湾の半導体産業から学ぶ姿勢を貫きたい。
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藤重太(ふじ・じゅうた)1967年(昭和42年)、東京・江戸川区生まれ。千葉県佐倉市に育ち、1986年、成田高校(学校法人成田山教育財団)卒業後に台湾に渡り、国立台湾師範大学国語教学センターに留学。台湾大学国際貿易学部卒業。在学中、夜間は私立輔仁大学のオープンカレッジで日本語の講師を4年間務める。1992年、香港にて創業し株式会社アジア市場開発の代表に就任。2011年以降、小学館、講談社の台湾法人設立などをサポート、台湾講談社メディアでは総経理(GM)を5年間務める。台湾経済部系シンクタンク「資訊工業策進会」顧問として政府や企業の日台交流のサポートを行う傍ら2016年に台湾に富吉國際企業管理顧問有限公司を設立して代表に就任。2021年3月、日本李登輝友の会理事に就任。主な著書に『中国ビジネスは台湾人と共に行け─気鋭のコンサルタントが指南するアジアビジネスの極意 』(SAPIO選書、2003年) 『藤式中国語会話練習帳(初級・中級)』(台湾旭聯、2007年)『亜州新時代的企業戦略』(台湾商周出版、2011年)『国会議員に読ませたい台湾のコロナ戦』(産経新聞出版、2020年)など。
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藤 重太(アジア市場開発・富吉国際企業顧問有限公司 代表)かつて世界一だった日本の半導体業界が��ぢいま世界一の台湾のTSMCから学ぶべきこと生き残るための��ぢ本気度��ぢが違う【PRESIDENT Online:2022年2月6日】https://president.jp/articles/-/54325
◆台湾政府系シンクタンクでの顧問経験
筆者は台湾政府経済部(日本の経済産業省に相当)系のシンクタンク「財団法人 資訊工業策進会(Institute for Information Industry、略称III)」で8年ほど顧問を務めた。その間、台湾が国策としていかに経済力を強め国際的地位を築いてきたか、国と産官学がどのように連携し、産業や企業を育成していったのかを台湾側から垣間見てきた。その経験を踏まえながら、今日の日本と台湾の差をもたらした要因はどこにあったのかを考えてみたい。
1980年代、日本は半導体の母国であるアメリカをも凌駕し、日本製の「日の丸半導体」が世界をリードしていた。当時の中核製品であったDynamic RAM(DRAM)メモリにおいて、世界シェアの上位5社はすべて日本企業だった(NEC、日立、東芝、富士通、三菱電機)。日本が技術大国、製造立国として世界から認知されていた、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル)という時代だった。
◆「最終消費財」にばかり目が向いていた日本メーカー
しかし、日本は80年代の半導体技術での優位性を活かせず、「ものづくり大国」としての地位はすっかり過去のものとなってしまった。なぜごく短期間に、日本の半導体業界はこのように落ちぶれてしまったのか。
第一の要因は、各社が「最終消費財」の生産ばかりを重視し、半導体を軽視したことだ。当時の日本企業は、パソコン、通信機器、テレビなどの家電といった最終消費財を製造販売することに固執し、半導体はその部品の一つぐらいに認識していた。そこで安い外国産半導体に頼ることにした結果、国内での半導体製造は縮小し、後にライバルとなる韓国のサムスンや台湾のファブレス企業が日本企業のお金で育つことになった。
第二に、半導体産業の可能性を見誤り、変化への対応に出遅れ、そして頑固だったことだ。
技術の優位性で油断していた日本は、サムスンや台湾メーカーのような半導体ビジネスへの大規模投資に10年ほど後れを取る。1999年にようやくNEC日立メモリ(後のエルピーダメモリ)、2003年に日立と三菱の半導体部門の統合によるルネサス テクノロジ(現ルネサス エレクトロニクス)が設立された。
しかし、両社を含む日本企業の多くは、設計から生産までを一貫して手掛ける、以前からの垂直統合型ビジネスをかたくなに守った。その結果、設計と生産の分業という世界的潮流に乗り遅れ、その後のDRAM価格の暴落や円高によって業績を大きく悪化させる。エルピーダメモリは2012年2月に会社更生法の適用を申請。負債総額4480億円余りと、国内製造業としては戦後最大の倒産劇を演じ、最終的には米マイクロン・テクノロジに買収されることになる。
この間の秩序無き統廃合や技術の切り売り、リストラ、売却劇などは、あまりにも無残だった。優秀なエンジニアの海外企業への転職、頭脳流出などもずいぶん進んでしまった。
◆効率最優先と引き換えに失われたもの
第三にバブル崩壊以降、「会社は株主のもの、株主を重視せよ」という考え方が強まったことの影響も指摘せざるを得ない。「物言う株主・アクティビスト」が増えた結果、各企業は「利益最優先」「効率主義」を強く求められるようになった。コスト削減圧力が高まる一方、モノ作りへのこだわりや品質重視といった姿勢は軽んじられ、企業は財務健全化のために内部留保を増やし、研究開発費や設備投資を抑制した。
日本企業はコストを削減するため生産拠点を海外に移し、下請け企業にも国際調達や海外進出を促すようになる。当時、筆者は京都の中小サプライヤーに対し、中国大陸での調達のサポート、通訳、事業アドバイスを提供していたが、彼らは元請け企業から海外調達比率やコスト削減の目標を言い渡され、未達成の場合は取引を継続しない可能性をちらつかされていた。このように大手企業の方針によって中小企業までが海外進出させられた結果、日本の産業の空洞化が進むことになる。
◆目先の利益ばかりを追求した報い
この頃から、勝つためには手段を選ばない日本企業の蛮行も増えてくる。90年代中頃、台湾で多くのメーカーと交流していた私は、「日本企業は相見積もりばかりする」「見積もりだけ取って、その後は音沙汰無し、値引きの交渉材料に使われるだけだ。俺たちをバカにしている」という不評や不満をよく耳にした。
日本の家電や電子製品づくりは、次第に顧客本位ではなくなっていく。価格をつり上げるために過剰な機能を増やしたり、無理なコストダウンのために品質を落としたりするケースが目につくようになった。日本国内での売り上げが伸び悩む中、進出先の国でのマーケット開拓も試みたが、地場の後発メーカーのシンプルで安い商品に負け続けた。
ものづくりができなくなった日本のメーカーが、海外で生産した商品をブランド販売する商社のようになっていく一方、力をつけた海外企業が日本市場を席巻するようになる。日本が育てたサムスン、日本の下請け工場だった鴻海科技集団(フォックスコン・テクノロジーグループ)、そして半導体の発注先だったTSMCが、その後日本企業を凌駕し、世界的な地位を築くとは、日本の誰もが想像していなかったかもしれない。
日本の半導体ビジネスの失敗は、目先の利益だけを追求し、技術革新、設備投資を怠り、長期的戦略の無いまま日本の産業と雇用を守ってこなかった結果だと言わざるを得ない。
◆台湾の国策企業の一つだったTSMC
一方、台湾は、50年程前の1970年代から半導体産業の勃興を予測し、国家プロジェクトとして電子産業の検討を始めた。73年にそのためのシンクタンク「工業技術研究院(以下、ITRI)」が設立され、76年にはアメリカのRCA社と技術移転契約を締結。これをもとに77年には3インチ(75mm)ウエハー工場がITRIの中に建設され、半導体製造に成功する。この工場をITRIからスピンオフさせて、1980年5月に企業として独立したのが、現在世界第3位の半導体メーカーである聯華電子股?有限公司(UMC)だ。
TSMCの設立にもまた、台湾当局が深く関与している。UMCの成功を受けて、83年には経済部で「電子工業研究開発第3期計画」がスタート。1985年にITRIの新院長に抜擢されたのが、1948年に渡米してハーバード大学やマサチューセッツ工科大学で学び、米半導体大手テキサス・インスツルメンツやジェネラル・インストゥルメントで経験を積んだモリス・チャン(張忠謀)氏だ。チャン氏は1987年2月にTSMCを設立したが、創業時の資本額55億台湾元(約231億円)のうち48.3%は、台湾政府の行政院開発基金が出資した。つまりTSMCも、台湾政府が創った国策企業なのだ。
◆在米の華人エンジニアを国が地道にヘッドハント
その間にも台湾政府は、新竹サイエンスパークの整備、雇用政策、規制撤廃や法整備、投資環境の整備、技術者のための住居の整備、技術者子女の教育環境の整備などを国家事業として進めていった。1980年代、新竹サイエンスパークの周りには大きな別荘が数多く建築され、「帰国組」の住居として提供されていたことは有名な話だ。台湾政府の要人が足しげくアメリカに渡り、優秀な華人をヘッドハンティングして台湾に招聘しょうへいするという、涙ぐましい努力があったのである。
2010年ごろ、黄重球経済副大臣(当時)が訪日した際、筆者はプレジデント誌のために彼にインタビューを行った。「私は台湾を売り込むためのセールスマンです」と語る副大臣の姿を見て、台湾政治家の使命感と台湾経済の強さを実感したものだ。
また、こんなこともあった。当時、経済部は電子コンテンツ産業の育成を決定し、日本の電子書籍ビジネスに着目した。そこで筆者に日本の出版社の台湾招聘に関する依頼があり、実際に日本を代表する出版界の経営者数名に台湾を訪問していただいた。その際、総統府で馬英九総統(当時)との謁見(えっけん)が組み込まれていたのには、大変驚いた。
しかも、台湾の当時の元首である馬英九総統の口から、「日本の電子書籍・コンテンツビジネスの経験を台湾にも共有してほしい」と言われれば、訪問した日本企業側も安心し、心が動かされるもの当然だ。目の前で、台湾政府がどのように産業を産み、経済で国家を強くするのか。政治によって新しい産業が生まれるかもしれない瞬間を垣間見た貴重な経験だった。
◆なぜ台湾にできることが日本ではできないのか
筆者は2020年4月に「台湾のコロナ対策が爆速である根本理由『閣僚に素人がいない』」という記事をプレジデントオンラインで書いた。台湾では閣僚だけではなく、官僚も研究者も経営者も皆がそれぞれプロとしての仕事をし、一丸となって国家の景気を支え、発展成長を続けているのである。経済力は国力であり国防力なのだ。経済力強化こそ、国際社会の中で立場の弱い台湾がさまざまな脅威や危機から自身を守り、生き残っていく唯一の方法であることを知っているのである。
台湾がまだ戒厳令下だった1986年、発展途上中の台湾に留学した筆者は「なぜ日本にできることが台湾ではできないのか」と思うことが多かった。しかし、近年では、半導体などの経済政策でもワクチン開発でも、そしてコロナ対応でも「なぜ台湾にできることが日本ではできないのか」と感じることが増えてしまった。
同じ島国、同じ自由民主主義国家、同じ法治国家、歴史的にも関係の深い台湾。お互いの長所も短所も、善しあしも共有し、学び合い、成長し、助け合えるより良い関係を、日本と台湾の間で作り上げていくことを願うばかりだ。
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