つとめている方がおり、仙台市長だった梅原克彦(うめはら・かつひこ)氏は常務理事で
あり、岡山市長から衆議院議員をつとめた萩原誠司(はぎわら・せいじ)氏は理事であ
る。
岡山市が台湾の新竹市と姉妹都市を提携した平成15(2003)年、それまで姉妹都市だっ
た中国の洛陽市から横槍が入った。しかし、用意周到だった萩原市長は新竹市との姉妹都
市提携を進め、中国側が折れたという経過がある。
萩原理事には、その経緯について機関誌「日台共栄」8月号に執筆いただいた。中国とい
う国柄がよく分かる。萩原理事でなければ書けない事実に慄然とする。おそらく中国との
姉妹都市提携について、このような「裏事情」が明かされたのは初めてだろう。
新竹市との姉妹都市交流 台湾と私(32)
萩原 誠司(理事・元岡山市長・法政大学教授)
私は岡山市長在任中、それまで中華人民共和国一辺倒であった岡山市の対外関係を他の
アジア諸国に拡大する機会に恵まれた。平成15年4月の台湾・新竹市との友好交流協定がそ
の眼目であった。「日台共栄」誌に貴重な紙面をいただいたので、この友好交流にまつわ
る、いくつかの出来事を照会したい。
【洛陽市との交流】
中国河南省洛陽市と岡山市は、昭和56年から姉妹都市関係を結んでいた。平成11年に岡
山市長になり、洛陽市との交流を受け継いだが、なぜ岡山市と洛陽市が姉妹都市なのか、
その意味を理解しかねていた。
調べてみると、中国政府からの姉妹都市縁組の打診を日本側が受け入れたものであっ
た。その背景は、日華事変において、岡山に本拠を置く旧陸軍の歩兵第百十連隊が洛陽攻
撃の主力であり、最終駐屯地が洛陽であったことが、中国側の相手選びの根底にあること
がわかった。中国外交の戦略性がここにも隠されていた。
【新竹市との交流の発端】
中国サイドに日本の「弱み」を握っておこうとの意図があるとすれば、われわれも戦略
的に対応する必要を感じ、その戦略の要諦は、台湾の都市との交流であると確信し、準備
に取り掛かった。
そのひとつは、中日共同声明や中日平和友好条約の精査でした。岡山市が得た結論は、
台湾との関係を岡山市が構築することは、声明・条約に違背しないということであり、こ
の点は、日本外務省の条約局にも確認を取った。もうひとつは、適正な相手を見つけるこ
とで、いくつかの候補を市議会と相談しながら検討し、新竹市を選ばせていただいた。
【洛陽市への事前通告と了解】
新竹市との関係が構築され、協定締結が視野に入った段階で、親書を劉典立洛陽市長に
送付した。
洛陽市に事前にこのことを通告し、併せて、声明・条約に違背しないことを知らせたも
のであるが、当時の洛陽市は、われわれの立場を理解し、同市として了解し、通告に感謝
するとの連絡があった。
【中国外交部の激怒】
その後、洛陽市当局から積極的に北京に連絡したかどうかははっきりしないが、唐家[王
施]・外交部長が洛陽市に対して激怒しているとの情報が入った。曰く「洛陽は、自分が日
本担当のころ心血を注いで選定した縁組の意味を理解していない。岡山の連隊に攻められ
たことを、この際まさに持ち出して、岡山を思いとどめさせるべきである」
これを受けて洛陽市が前言を翻し、新竹市との交流協定をやめて欲しいと連絡してき
た。また、在京中国大使館の書記官が私に接触してきて、「外交部長の顔に泥をぬるよう
なことは、やめてくれ。あなたのためにもならない」と伝えに来た。
【日本国内でのプレッシャー】
洛陽市及び在京中国大使館からの要請を丁重にお断りした段階で、岡山にゆかりの政治
家お二人、橋本龍太郎さんと片山虎之助さんから「萩原君、暴走はいけない」とご忠告を
いただいた。これに対しても「声明・協定に違背しないことは、外務省にも確認済みで
す。日本の将来を考えたとき、台湾との正式な交流を持つことは、死活に関わる重要性が
あると思います。また、アメリカのいくつかの都市も中国、台湾の両方と交流をしてお
り、これを中国も認めています」と、これも丁寧にお断りさせていただいた。
【台湾での高い評価】
新竹市及び台湾の行政院は、この一連の状況をよく理解し、岡山市の対応を非常に高く
評価した。
その後の交流の実態もしっかりしたものであり、また、私が市長を辞して後も、折に触
れて連絡をしていただいている。
萩原誠司(はぎわら・せいじ) 昭和31(1956)年、岡山県生まれ。東京大学卒業。同55
年、通産省に入省。平成11(1999)年、通産省を退官し岡山市長選挙に出馬し当選。2期目
の同17(2005)年、岡山市長を辞職し衆議院議員総選挙に出馬し当選。その後、法政大学
情報技術(IT)研究センター学術担当教授に就任。本会理事。