後藤新平・その強烈な個性 [外交評論家 加瀬 英明]

【6月25日「加瀬英明のコラム」メールマガジン】

 いま、日本が活力を失いつつあることが、憂えられている。

 幕末から明治にかけた日本は、力が漲っていた。だからこそ、西洋の帝国主義が猖獗
をきわめていた時に、日本だけがアジア・アフリカ諸民族のなかで、見事に近代化を成
し遂げて、短時間のうちに白人が制覇した世界で、一流国に伍することができた。

 あのころの日本は司馬遼太郎の『坂の上の雲』に描かれているように、綺羅星のよう
に多くの人材によって恵まれていた。

 後藤新平といえば、11歳で明治元年を迎え、昭和4(1929)年に没したが、大きな夢
と行動力に溢れながら、明治から大正を駆け抜けた、型破りの巨人だった。

 近代日本の鉄道、医療、郵便、電気事業の基礎をつくったほかに、台湾の経営に優れ
た手腕を発揮して、李登輝前総統をはじめとして、今日でも多くの台湾人から慕われて
いる。

 首相として嘱望されながら、強烈な個性の持ち主だったために群れることがなかった
から、首相の座につけなかった。

 後藤は原敬首相に懇請され、はじめ固辞したが、大正9(1920)年から東京市長をつ
とめて、敏腕を振るった。市長在任中の大正11年に、『江戸の自治制』を題する優れた
研究書を著している。

 江戸は世界における大都市であり、武士を除いて70万人の町民を擁していたのに、司
法、警察を含めて僅か300人あまりの役人で治めていた。2番目の都市だった大坂も同じ
ことだった。このようなことは、日本以外の国では考えることもできなかった。

 後藤は市民が「自治精神を鼓吹」したから、「少人数役人を以て之(これ)を処理して
猶綽(なおしゃく)然(ぜん)余裕(が)有」ったと述べている。そして、「幕政の特色た
りしは儀礼を以て社会を秩序せること是也(これなり)」と、結論づけている。マナーに
よって、支えられていたのだ。

 後藤は明治に入ってから近代化によって、「精神的に(略)其(その)蹂躙する所と爲
(な)りたるより、(略)之(これ)が爲め一方に旧都市の栄光土(ど)泥(でい)に委(い)し、
都風破れ、自治的旧慣亦(また)多く廃されて地を払ふに庶し」と説いて、江戸の良風が
破壊されたことを慨嘆している。

 江戸時代の日本人は庶民にいたるまで、礼儀正しかった。世界のどの国よりも、徳性
が高かった。

 いったい、日本の力はどこにあるのだろうか。近代化に取り組んで日が浅かったのに、
日清、日露戦争に勝って世界を驚かせたのも、その後の日本の発展をもたらしたのも、
日本国民が蓄積した徳──マナーの力によった。

 日本は資源のない国だ。日本の資源は徳であった。徳こそ資源だった。ところが、い
ま私たちはこの唯一つの資源を食い潰すようになって、力を萎えさせている。

 後藤は今日の岩手県水沢市の貧しい士族の子だった。母の理恵も偉かった。夫に仕え、
子に愛情を注ぎながら、厳しく育てた。後藤はいいつけを破ると、母に藁縄で縛られて、
物置小屋にほうり込まれたと、回想している。

 父母の教育が、明治の逸材を創った。マナーはものごとを、厳しく律することから発
する。今日の子どもも、大人もマナーをまったく弁えていないのは、社会から厳しさが
失われてしまったからである。

 後藤は典型的な“井戸塀政治家”だった。後藤邸の跡に、中国大使館がたっている。
私はその前を通るごとに、後藤を偲んでいる。(2008・6)



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