熊本県では志賀哲太郎や平井数馬、湯徳章など、いまもなお台湾で敬愛されている地元で生まれ、または両親が地元出身などの熊本の偉人を顕彰することが民間団体によって進められ、最近は地元のテレビ局が特集を組んで放送するようになっています。
このような台湾とつながる地元の偉人を見出して顕彰することは、実は熊本ばかりではなく宮崎県でも着目されています。
そのきっかけを作ったのは、宮崎県西都(さいと)市出身の画家で、石川欽一郎(いしかわ・きんいちろう)とともに台湾美術振興に大きく貢献した塩月桃甫(しおつき・とうほ)を描いたドキュメンタリー映画「塩月桃甫(しおつき・とうほ)」でした。
監督を務めたのは、宮崎県延岡市出身のアーティスト小松孝英(こまつ・たかひで)氏。
小松氏は10年ほど前より台湾の国際アートフェアに作品を何度も出品しており、台湾で塩月の名を聞く機会も多かったそうです。
そんなとき、塩月が生まれた宮崎県児湯郡の骨董屋で塩月が描いた台湾原住民の油絵と出会い、関心を持つようになったそうです。
しかし、調べて行くうちに、台湾での知名度、貢献度とは対照的に日本はもちろん地元の宮崎でもほとんど知られていない現実を知り、塩月の功績や生き様を広めるべく映画製作を決意するに至ったといいます。
ドキュメンタリー映画「塩月桃甫」は塩月桃甫渡台100周年記念として制作され、2021年4月28日、故郷の西都市民会館で公開されました。
同年6月6日には台湾協会がコロナ禍を衝いて東京都内で試写会を行っています。
このほど宮崎県の地元局のNHK宮崎では、台湾に取材クルーを派遣して宮崎と台湾をつなぐシリーズ「えん旅」を放送し、去る3月7日の2回目では「台北市立美術館を訪ね、台湾の芸術界に大きな影響を与え続けている明治生まれで宮崎出身の画家、塩月桃甫の足跡」をたどる放送をしました。
台湾美術研究家の森美根子(もり・みねこ)氏は、『台湾を描いた画家たち』(産経新聞出版、2010年10月刊)で「今日の台湾美術の基盤は、その揺籃期に、台湾美術展覧会の創設に携わり16年間審査委員を務めた塩月桃甫の業績を抜きにして語れるものではない」と評しています。
ようやく地元の宮崎でも塩月桃甫の事績が浸透しはじめたようで、よろこばしいことです。
さらに盛り上がってくれることを期待しています。
◆ドキュメンタリー映画「塩月桃甫」公式サイト
https://shiotsukitoho.com/
塩月桃甫(しおつき・とうほ)
1886年2月27日、宮崎県児湯郡三財村に生まれる。
本名、永野善吉。
宮崎師範学校、東京美術学校(図画師範科)卒業。
1921年に図画教師として台湾に赴任し、台湾の自然風土や原住民の野生美に魅せられ「母」「女子像」「虹霓(こうげい)」「ロボ(口琴)」「タイヤル」などの作品を発表。
台湾に初めて西洋美術を広め、台湾美術展覧会の創設に携わるなど、25年にわたって台湾美術界に大きく貢献。
しかし、日本の敗戦で運命は一変し、1946年、59歳で宮崎に帰郷。
貧窮に喘ぐなか本の装丁や新聞の挿絵の仕事をしながら創作に励み、宮崎大学の講師をつとめて後進を育て、宮崎県美術展覧会の審査員となって戦後の宮崎県美術を牽引。
1953年に宮崎県文化賞を受賞するも1954年1月30日、逝去。
主な作品に「蕃人舞踊団」(宮内庁所蔵)「裸婦」「舞妓」(いずれも宮崎県立美術館所蔵)など。
台湾芸術界に大きな影響 宮崎出身の画家 塩月桃甫の足跡辿る
【NHKニュース:2025年3月7日 映像:9分18秒】
https://www3.nhk.or.jp/lnews/miyazaki/20250307/5060020535.html
定期航空便の運航再開をきっかけに、今後ますます宮崎との交流が活発になると期待される台湾。
NHK宮崎では、その台湾に取材クルーを派遣し、宮崎と台湾をつなぐ”ご縁”に迫ります。
その名も、シリーズ「えん旅」。
2日目は、台北市立美術館を訪ね、台湾の芸術界に大きな影響を与え続けている明治生まれで宮崎出身の画家、塩月桃甫の足跡を辿りました。
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