呉正男・本会理事が出演したTBS「報道特集─台湾の“元日本兵たち”」

 本誌前号でお伝えしたように、8月12日夕、本会理事で元信用組合横浜華銀理事長の呉正男氏が出演したTBS番組「報道特集」が「台湾の“元日本兵たち”」を報道した。

 予告で「アジア・太平洋戦争で“日本人”として戦った台湾出身の青年たち」と打っていたので、恐らくバイアスがかかった番組になるだろうと予想していた。

 呼称一つに本質が表れる。呉正男さんや台湾出身者が戦った戦争は「大東亜戦争」だ。「太平洋戦争」でもなければ「アジア・太平洋戦争」でもない。呉正男さん自身、講演会などでは「大東亜戦争」と述べている。

 大東亜戦争の呼称は、昭和16年(1941年)12月10日の大本営政府連絡会議で決定し、12日の「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と閣議決定したことに基づく。

 番組はそれでも呉正男氏の発言を丁寧に紹介していた。しかし、番組自体が解説するとやはり戦後レジームから抜け出せない、バイアスがかかったものとなっていた。

 例えば、番組では「当時日本の統治下にあった台湾。およそ21万人が日本の軍人・軍属としてアジア太平洋戦争を戦い、少なくとも3万人が亡くなった」と解説している。

 しかし、1973年(昭和48年)4月14日に厚生省は台湾関係軍人・軍属戦死者数を発表している。台湾出身の軍人・軍属者数は20万7,193人、戦死者は軍人2,146人、軍属2万8,158人の計3万304人だった。

 このように公の数字が発表されているにもかかわらず、番組では「少なくとも3万人が亡くなった」と解説する。広島や長崎の原爆で亡くなった方たちを報道する場合に、このような概数で報道することはめったにない。台湾出身戦歿者を慰霊する内容の番組でもあるのだから正確な戦歿者数をもって解説すべきではなかったのか。

 その最たる発言が、番組の終わり間際に、日下部キャスターが訪台した麻生自民党総裁の発言を批判したことによく表れていた。「ただの一度も友達を裏切ることも見捨てることもなく」という発言があたかも麻生氏本人の発言のように説明し、戦後の補償問題で台湾を見捨てているではないかと麻生氏を批判したのだった。

 実は、この発言は、麻生氏が漫画「ワンピース」の登場人物ルフィについて「連載が始まって20年以上、ただの一度も友達を裏切ることも見捨てることもなく、周りの人々としっかりとした人間関係を築く中で、大きなグループのリーダーとして確実な実力を示した」と説明していた中の一節だ。

 麻生氏は日台関係も漫画「ワンピース」のように「きっちりとした人間同士があり、それが長く続く関係を発展させる要素になったと信じている」と述べているが、「ただの一度も友達を裏切ることも見捨てることもなく」とは発言していない。あくまでも漫画「ワンピース」のルフィを説明した言葉だ。それを日下部キャスターは巧妙にすり替え、麻生氏自身の発言としたのだった。

 また、番組では「台湾の元日本兵らが軍人恩給などの補償を求める訴えを起こしたが、認められなかった」と伝える。

 しかし、1987年9月、台湾出身元日本兵の戦死者遺族と戦傷者に一律200万円の弔慰金を支払う法律が制定され、日本赤十字社から中華民国紅十字会を通し、2万8,147人に対して総額563億円が支給されていた。このことには一切触れていない。

 補償裁判を取り上げながら、この弔慰金が支払われた事実を取り上げなかったのはどうにも理解できない。もちろん、台湾出身戦歿者の遺族や従軍者に対して軍人恩給が支払われていないことは問題だと思うものの、弔慰金が支払われていたことは、番組にとって「都合の悪い真実」だったのだろう。

 この事実を紹介した上で麻生氏を批判するならまだ分かるが、日本が弔慰金を支払った事実には口を閉じ、一方的に、それも話をすり替えて批判するのは問題だ。その意味で、問題の多い番組だった。

 テレビ局の偏向報道はいまだに少なくない。救いは、この番組では呉正男さんの発言をありのままに紹介していたことだ。活字化していたので、動画とともに下記に紹介したい。

                 ◇     ◇     ◇

呉 正男(ご・まさお)1926年(昭和2年)8月、台湾・斗六生まれ。斗六尋常小学校を経て、昭和16年、13歳のとき日本の中学校へ留学。昭和19年4月、16歳で陸軍特別幹部候補生を志願し水戸航空通信学校に入隊、通信士の訓練を受ける。同年12月、滑空飛行第一戦隊に配属。同20年5月、大型グライダー(滑空機)を曳航する九七式重爆撃機の機上通信士として従軍中、朝鮮北部の宣徳飛行場にて終戦。ソ連・カザフスタンで抑留後、同22年7月に復員。攻玉社高校、渋谷高校夜間部を経て法政大学に入学。同29年3月に卒業後、信用組合横浜華銀に入社し、2度辞職してとんかつ屋やたばこ卸業、薬屋を自営するも復職し、専務理事(18年)、理事長(6年)を経て72歳で退職。「NHKのど自慢大会の台湾開催をお願いする日台の会」会長をつとめ、2011年10月に台湾開催を実現。2013年7月公開の日本語世代を活写した酒井充子監督のドキュメンタリー映画「台湾アイデンティティー」に出演。日本李登輝友の会理事、横浜台湾同郷会最高顧問、前伊勢山皇大神宮総代。

—————————————————————————————–「日本人になりきった」アジア・太平洋戦争で“日本人”として戦った台湾出身の青年たち 日本と台湾の狭間で生きた元日本兵の願いは…【TBS報道特集:2023年8月12日】https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/659647

 東京都・奥多摩町。都心から車で2時間あまり。そこで私は横浜在住の台湾人・呉正男さんと落ち合いました。

 目的は先の大戦で亡くなった台湾出身日本兵の慰霊です。呉さんは足が思うように動かなくなってからも何度も奥多摩を訪れています。

参加者「私たちだけで行こうとしたら『なんで僕を誘わないんだ!』って」

普段あまり人が訪れない山あいに目的地はありました。

呉正男さん「なかなか文章いいでしょ?」

 「台湾出身戦没者」の慰霊碑。70年代に日本の民間人の有志が建てたものです。

 碑文には「あなた方がかつて我が国の戦争によって尊いお命を失われた事を深く心に刻み永久に語り伝えます。」とあります。

呉さん「“台湾人”と書いてないんだよ、“台湾出身”なんだよ。台湾人は元日本人なんだよ。非常に良い配慮だと思いますね、“台湾出身”という言葉はね。台湾人でも日本人でもない、でも本当は日本人として戦ってるわけで」

 高台からのぞむ湖が台湾の景勝地・日月潭に似ていることからこの地に立てられた慰霊碑ですが、場所の不便さもあり、長年放置されていました。

 有志によって慰霊祭が再開されたのは2010年のことです。 呉さん「本当にこれを見るたびに私は嬉しく思うんです。日本においてはたったここだけしかないんですね。本州においてはこの1つしかない。碑がないってことは僕はね、昔もし死んでいたらね、誰も拝んでくれなかったんだなあと」

 呉さんの取材を始めたのは3年前、シベリア抑留された台湾出身の日本兵が存命だと人づてに聞いてからでした。

 多くの台湾出身者が戦争にかり出されたことは知っていましたが、抑留者の中にもいた事を知ったのはこの時が初めてでした。

◆日本人として戦った台湾の人たち

 当時日本の統治下にあった台湾。およそ21万人が日本の軍人・軍属としてアジア太平洋戦争を戦い、少なくとも3万人が亡くなった。

 呉さんは愛国少年として育ち日本に留学するも、16歳で陸軍に志願。配属されたのは茨城県に新設されたグライダー部隊だった。

 大型爆撃機が兵士を乗せたグライダーをけん引し、敵の基地上空で切り離す。着陸したグライダーから兵士が飛び出し、攻撃を試みる。いわば決死の特攻部隊だ。

── 皇民化教育観みたいなものをずっと受けてるとき台湾の若者たちというのは、どういう意識を持つんですかね。 もう、もう日本人になりきるわけですか?

呉さん「…私はもう日本人になりきったんだろうね」

── もう日本人として戦場で死んでもいいと思ったんですか?

呉さん「そう思いました。もちろん、もちろんですね」

 しかし、制空権を失った日本ではもはや訓練もできず、北朝鮮東海岸に位置する宣徳飛行場に移る。終戦2か月前の1945年6月、兵士が召集され1枚の紙が配られた。

呉さん「特攻意志調査があったの。三つの字があって丸付けると。僕が覚えてるのは“志望”、“熱望”、“熱烈望”です。志望、熱望、熱烈望ね」

── 拒否はできない?

「うーん…ないね。でも戦後、中隊長に聞いたら全員が“熱烈望”をつけてたと言っていましたね」

── 呉さんも?

「もちろんですね、だいたい順番が来たと、僕は単なる順番が来たなと」

 呉さんは先発隊に外れ、8月5日に64人が飛び立つのを見送った。そしてそのまま、北朝鮮で終戦を迎えたのだ。

「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨…」

呉さん「聞いたときはね、雑音が多くて理解できないのよ。それでだんだんだんだん負けたってことがわかってきた以外にね。周りの朝鮮人達の動きが全然違う、今までとね。歌ったりし始めてるからね」

◆マイナス25℃を下回ることも…過酷な砂漠地帯に収容

 しかし、呉さんの戦争体験はここで終わらなかった。南の38度線を目指す途中、ソ連兵に捕らえられ過酷な抑留生活を強いられたのだ。戦後、57万人におよぶ日本人がソ連やモンゴルの収容所に送られ、飢えや寒さの中、重労働を強いられた。5万5千人が亡くなったという。

 呉さんが収容されたのは、カザフスタン南部にあるクズオルダ。寒暖差の大きい砂漠地帯で、マイナス25℃を下回る日もあったという。

 現地に関する資料がほとんど見つからない中、クズオルダの収容所にいたという元日本兵の語り書きを見つけた。

「食事の量は不十分で、食べても腹3部の状態だった。」

「冬場は深いところは砂が凍るため、つるはしをいくら強く振り下ろしても2cmくらいしか突き刺さらない。」

「ノルマを果たせないため、朝の食事量を減らされた。」

 私たちは聞き取りをした家族に会うことにした。

 直美さんと律子さん。この姉妹もまた、抑留されていた父親の足跡をたずねて情報を集めていた。7年前には収容所を探すためクズオルダを訪問したが、場所は特定できなかったという。

 呉さんが語り書きを見る。二人の父親に心当たりはないと言うが…

呉さん「いやびっくりしちゃった。読んでると、なるほど、似てるんだよね。薪取りに行ったと。水は美味しくなかったと。腹三部も、ダム堀りね、これは一緒なんだよ」

律子さん「こんなの掘ったんじゃないですか?」

直美さん「今こんなになってるんですよ。皆さんが掘ってくださったのが」

呉さん「掘ってこれを担いであがって、上に泥を盛って。何に使うかもわからなかった。いつも俺、死んじゃったら(家族に)誰が教えるのかって、いつも心配だった。」

 そしてこの言葉が自身の体験とも重なった。

呉さん「絶対生き抜いてやると。僕はマラリアに二回かかっちゃったから、もう熱が出て熱が出て、俺は駄目だと思うよりも絶対生き抜いてやるぞっていうと、全然違うからね。」

直美さん「父の場合はね、子どももいましたしね、絶対生きて帰らなきゃっていうのがあったみたいですよね。」

呉さん「責任がね。」

律子さん「でもね、父が帰ってこないと、私たち生まれてないんです」

呉さん「とにかく、お父さんも私も非常にいいのは、ソ連抑留からみれば幸せな方ですね。(極寒の)シベリアではなかったこと。2年たらずで終わったこと」

 それでも当時の辛さがしのばれる、こんな映像が残っていた。40年前の報道特集のインタビューだ。抑留中、食事をもらうのに使っていたという飯ごう。その蓋を内側から叩いてのばしたという。

呉さん「少し膨れているのは、わからんように蓋を膨らまして、少しでも食料をもらうときに、入れる人が気が付かないようなふくらまし方で、わずかひと口でもふた口でも、余計に食料をもらおうという苦心の跡が見えるわけですね。なんでまあ、軍隊になんのためらいもなく志願していったのか。死に対する悩み、戦争に対する疑問。こういうものを私全然持たないで行ったことに対して、とても戦後悩んだんですね、戻ってきてから」

 ロシア側に保管されていた呉さんの個人記録には、収容所を出る頃の直筆のサインがある。「大山」は、呉さんの日本名だ。

 実はこのとき、日本名を名乗っていたことがその後の生死を分ける結果になった。台湾ではなく、日本行きの船に乗せられたからだ。

呉さん「私の人生の最大なる幸福は戦後2〜3年間、台湾に帰らなかったことだから」

 台湾に戻った兵士はどうなったのか──。

◆終戦とならなかった台湾

日下部正樹キャスター:「台湾の街を歩いていますと、このような廟をよく目にするんですけど、この廟に祀られているのは日本人、台湾で戦死した兵士がここに神様として祀られています。」

 この地で戦死した無名の青年パイロットが祀られ、地元の人たちの信仰を集めていることにちょっと驚かされました。

── 煙草を付けるんですか?

地元住民「彼は煙草を吸うので」

 50年にわたり日本の植民地でありながら台湾には親日家が多いと言われます。それは台湾の戦後が新たな恐怖の始まりだったからです。

 日本にかわって台湾を治めたのは中国国民党。台湾の人たちにとって昨日までの敵がやってきたのです。日本の高等教育を受けたエリート層への弾圧が始まりました。

 日本語の使用は禁じられ、言われなき罪で多くの人たちが逮捕・投獄されました。

 拷問や処刑により殺害された人たちは数万人におよぶとも言われます。台湾の人々は陰でこうささやき合いました。

「犬(日本)が去って、豚(中国)が来た」

 呉さんの古里、台湾・斗六市。幼かった呉さんが暮らした頃の町並みが残っています。姪にあたる淑芬さんが呉さんの生家を案内してくれました。

呉淑芬さん「ここが呉さんの家族が住んでいた所です」

 戦後、呉さん一家も弾圧を恐れバラバラに暮らさざるを得ませんでした。 淑芬さん「呉さんの父親は(日本統治時代の)政府の役人なのでとても危なかったんです。あれは時代の悲劇です。誰も逃げられず、大勢の人が亡くなりました。斗六の台湾のエリートも皆連れていかれて、銃殺されました」

 今回の台湾取材でどうしても会いたい台湾出身の日本兵がいました。

 4年ぶりに再会した趙中秋さん。96才。

 補給のないジャングルで、ほとんどの兵士が飢えと病に倒れた「インパール作戦」の生き残りです。

── 前にお会いした時、趙さんは自分は日本人だと言っていました。

趙中秋さん「いまでも言うてます。」

── 今でも?

趙さん「今でも私は日本人です。やっぱり死ぬまで日本人なんだ」

 台湾政府にとっては元敵国の兵士、日本政府にとっては既に外国人。戦後はどちらにも頼ることが出来ませんでした。脳梗塞で思うように言葉が出ません。絞り出すように「私は日本人」と繰り返します。

 趙さんはどうしても、と言って近所のベトナム料理店に誘ってくれました。そこで牛肉麺を平らげる姿に地獄を見てきた兵士の生への執念を感じました。

 別れ際に尋ねました。

── 趙さんにとって、戦争はもう終わりましたか?

趙さん「わからない。私にとってはそのまま残されている」

── 何が残されているんですか?

趙さん「私の戦争。昔のまま残されている。皆さんにも残されていると思う」

◆日本人として戦ったのに…戦後の補償問題

 復員後は日本人ではなくなり、外国人扱いとなった呉正男さん。5年遅れで日本の高校に通い、パチンコ店で働きながら、法政大学に入学した。卒業後、40年近く務めたのが横浜中華街にある銀行だ。

呉正男さん「僕の自慢はね、僕の専務から理事長時代まではね、一件も貸し倒れ起きていない。自慢している」

 台湾籍を貫いてきたが1度だけ、日本国籍を取得しようと役所を訪れたことがあるという。

呉さん「奥の部屋に入って座って、僕の経歴ね。中学入隊、戦隊、ソ連抑留 、復員、銀行の理事長もやったし、それで喋って、立ち上がろうとしたら 、『申請しても出ないことありますよ』って言われたから、 『ん?この野郎』と思ってね。ムカってしたんだ俺。(これだけの経歴を持ってるのに) あなたならすぐ出ますって思ったんだよ、普通ね。元兵隊さんだよあんた、元日本兵でしょ」

 日本人として教育され、日本のために命をささげた自身の過去が否定されたように感じた。戦後の補償問題にも釈然としない思いを抱えている。

 1974年、インドネシアのジャングルで台湾出身の日本兵が発見されたことがあった。終戦を知らずに30年も彷徨い続けていたのだ。衣服はぼろぼろで裸同然だったが、この三八式銃は最後まで手にしていたという。

 日本政府は未払い給与などの名目で6万円ほどを渡し、そのまま台湾へ帰らせた。その処遇は他の日本人の元兵士とは雲泥の差だった。

 これをきっかけに、台湾の元日本兵らが軍人恩給などの補償を求める訴えを起こしたが、認められなかった。台湾籍の呉さんも補償を受けていない。

呉さん「僕たちは何もないわけだ。死んでも」

── おおもとはやっぱり日本政府の対応なんじゃないですか?

呉さん「最初のうちはね。最初のうちは『お金がありません』ね、戦後だからね。2番目は『そんな法律はありません』だね。3番目は『そんなことがあったんですか』だね。本当に冷たいのはもうそのお金の問題よりも、3万人も死んで誰も碑を立ててないのおかしいよね」

 2022年8月、東京・千鳥ヶ淵の戦没者墓苑。

 毎年8月23日にはシベリア抑留犠牲者の追悼集会が開かれます。8月23日はソ連の指導者・スターリンが抑留命令を出した日とされます。

  猛暑にもかかわらず呉さんは毎年参列しています。抑留先だったカザフスタンの大使の姿もありました。 在日カザフスタン大使「いつも覚えております皆さんのこと。おいくつですか?」

呉さん「95」

 呉さんが体験してきた過酷な戦争。しかし「自分は幸運だった」と繰り返します。 呉さん「…とにかく、全てマイナス。いろいろなマイナスがあって今日までこうやって生きているんだから、一番幸せだと思う」

 自らの体験を決して辛かったとは言わない呉さん。私にはそれが亡くなった多くの同胞に対する気遣いに感じられてなりません。

そんな呉さんが日本人、そして日本社会に訴え続けてきたことはただひとつ。

“日本のために命を落とした台湾出身日本兵の慰霊碑を誰もが足を運べる場所に建てたい”

 このささやかな願いが叶うのでしょうか? 残された時間は余りありません。

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