とてもよい提案だ。台湾と「正面から向き合う」とは、具体的にどういうことを指すのかにまで言及していただきたかったが、文脈からすると、中国の航空当局が世界各国の航空会社に台湾を「中国台湾」と変更するよう圧力をかけていることに対し、日本は米国のように、航空会社に変更しなくともよいと政府として毅然とした姿勢を示すべきだと言いたいのだろうと受け止めた。
もちろん、そうあってしかるべきだ。中国の国内事情に日本が付き合う必要はさらさらない。よくぞ言ってくれたと喝采を送りたい。
ただし、文中で「太平洋戦争」と使っているのはいかがなものだろう。李元総統の実兄の岩里武則こと李登欽氏が戦い、李元総統ご自身が学徒出陣したのは太平洋戦争ではない。大東亜戦争だ。
この「大東亜戦争」は、昭和16年(1941年)12月12日に政府が閣議決定している正式な呼称だ。戦後、GHQにより使用禁止となり、替わりにGHQが広めたのが米国側の呼称の「太平洋戦争」だった。いまやとっくにGHQの占領は終わっている。誰にはばかって日本の正式呼称を使わないのだろう。
未だにメディアが太平洋戦争と使っているから、正確に戦前を振り返れない面があり、台湾の日本統治の評価にも影を落としている。
小山田氏のせっかくのまっとうな主張も、「太平洋戦争」と使うことで腰が引けたような印象を与えかねない。次からは堂々と大東亜戦争と使ってもらいたいものだ。
————————————————————————————-台湾を3度捨てるのか 国際部担当部長 小山田 昌生【西日本新聞「風向計」:2018年7月11日】
先月、73年目の「慰霊の日」を迎えた沖縄を台湾元総統の李登輝氏が訪れた。95歳、療養後の体を押して、台湾人戦没者慰霊祭と自ら揮毫(きごう)した記念碑の除幕式に参列し、祈りをささげた。日本統治下に育った李氏は海軍兵士だった兄を戦争で失い、自身も学徒出陣を経験している。
太平洋戦争では、約20万人の台湾人が日本の軍人・軍属として動員され、約3万人が戦死した。台湾南部・高雄市の「戦争と平和記念公園」に台湾人元日本兵の資料館がある。記録や遺品から、彼らが日本の敗戦後も過酷な状況にあったことが読み取れる。
中国から来た国民党・蒋介石政権に徴用され、多数が大陸で共産党との内戦に従軍させられた。共産党軍の捕虜となり、朝鮮戦争で戦死した人もいる。故郷台湾を守るためではなく、日本と中国の都合で人生を翻弄(ほんろう)されたのだ。
「日本は、台湾を2度捨てた」。台北特派員だった頃、複数の日本語世代のお年寄りから、この言葉を聞いた。
1度目は1945年の終戦だ。無条件降伏した日本は、それまで50年間統治してきた台湾の施政権や公有財産を放棄した。だが、その権利は共に汗を流した台湾人ではなく、蒋介石政権の手に渡った。
2度目は72年の日中国交正常化に伴う台湾との断交だ。日本を「祖国」と教え込まれた世代の台湾人は「見放された」と感じたという。
72年の日中共同声明で日本政府は、台湾を自国領の一部とする中国の立場を「十分理解し、尊重」すると表明する一方、「同意」や「了承」の表現は避け、台湾との実質的な外交関係を保ってきた。
中国は最近、「一つの中国」原則を受け入れない台湾の蔡英文政権への圧力を強め、各種の国際会議から締め出すだけでなく、外国企業にまで干渉し始めた。日航や全日空は中国側の要求に応じ、中国向けサイトで「台湾」の表記を「中国台湾」に変更した。
台湾は観光、グルメの島として人気で、日台間は年間600万人以上が往来する。だが、朝鮮半島や中国を巡る問題に比べ、台湾が抱える苦悩について語られる機会は少ない。中国が経済・軍事的に台頭し、東アジアの勢力図は大きく変わりつつある。日本は台湾の「親日的」印象に甘えるだけでなく、民主主義や人権などの価値観を共有する隣人として、正面から向き合う時ではないか。「3度捨てた」と言われないためにも。
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▼おやまだ・まさお 北九州市出身。筑波大卒。1987年入社。佐世保支局、編集企画委員会、東京 支社報道部、台北支局、アジア室などを経て現職。