が地元の熊本市で開催される。
主催する平井数馬先生顕彰会代表で前熊本県立大津高校校長の白濱裕(しらはま・ひろし)氏に
産経新聞が取材、白濱氏と平井数馬命の顕彰碑が建立されている熊本市中央区の小峯墓地を訪れ記
事にした。下記に紹介したい。
六氏先生の一人で、愛知県西尾市出身の関口長太郎命の慰霊顕彰祭も、4年前の平成23(2011)
年から執り行われている。これは、愛知の教育を考える会の杉田謙一(すぎた・けんいち)事務局
長が中心となって生誕150年を機に「関口長太郎先生のご生誕を祝う会」を設立、11月11日に行っ
たのが嚆矢だ。
記事にもあるように、李登輝元総統は平成21年(2009年)9月7日に熊本を訪問されたとき、翌8
日、平井数馬命のお墓と顕彰碑に参拝されている。白濱氏は、その日の夜に行われた李元総統の講
演会に出席している。
白濱氏はその後、関口長太郎命の慰霊顕彰祭が行われていることを知って杉田氏と連絡を取り、
郷土熊本の偉人の記憶を消したくないと発起、さらには「国家百年の計たる教育の再生に向けて、
『芝山巌精神』に学ぶべく」今回の慰霊祭・顕彰会を企画したという。
慰霊祭の祭主は、白濱氏の友人でもある、前熊本県神社庁参事の湯治道男(ゆじ・みちお)大江
神社宮司がつとめられるという。
台湾教育の礎築いた「六氏先生」 数馬の功績、脚光再び 熊本
【産経新聞:2015年1月31日】
http://www.sankei.com/region/news/150131/rgn1501310040-n1.html
写真:熊本芝山巌会が建立した顕彰碑の前に立つ元高校校長の白濱裕氏=熊本市中央区の小峯墓地
平井数馬
台湾の近代教育の礎を築いた6人の日本人教育者「六氏先生」の1人で、熊本出身の平井数馬を顕
彰する活動を、熊本県の元高校校長らが再開した。日清戦争後の台湾統治下で抗日ゲリラの襲撃に
遭い、17歳で非命に倒れた。元校長らは「数馬ら六氏先生の功績を語り継ぎたい」と2月1日に慰霊
祭を営む。(谷田智恒)
◇
平井数馬は明治11年7月に松橋町(現・宇城市)に生まれ、名門・済々黌(現済々黌高校)を卒
業した。中国語にたけており、28年8月に台湾総督府通訳官に任じられ、台湾へ渡った。
数馬は台湾で最初に設立された学校「芝山巌学堂(しざんがんがくどう)」に住み込み、住民の
教育活動に当たった。長州藩出身で初代群馬県令を務めた楫取(かとり)素彦の次男、楫取道明ら
5人の日本人教育者が同僚だった。数馬は「日台会話集」など語学書の編集にも携わった。
しかし、当時の台湾は政情不安だった。日本による統治が始まったばかりで、日本人を敵視する
「土匪」と呼ばれる抗日ゲリラも多数いた。明治29年元日。数馬ら6人の日本人教師は、新年あい
さつで総督府に向かう途中で襲撃された。数馬も奮戦したが殉職した。17歳だった。
「六氏先生」の教育活動は1年にも満たなかったが、日本の教育界からは、彼らの遺志を継承し
ようという声が沸き起こる。有志が続々と台湾へ渡り、献身的に教育に従事した。元熊本県立大教
授の弘谷多喜夫氏の調査では、熊本からも延べ2千人を超える教師が台湾へ赴いた。大正時代後半
には台湾の小学校教員のほぼ1割を熊本出身者が占めたという。
こうした熊本県出身者が「熊本芝山巌会」をつくり、数馬の功績を語り継ごうと活動を始めた。
昭和47年には、熊本市中央区の小峯墓地にある平井家墓所に顕彰碑を建立した。平井家墓所には平
成21年、台湾の李登輝元総統も参った。
戦前まで台湾芝山巌神社での祭事にちなんで、毎年2月1日に数馬を顕彰する「英魂祭」を催して
きた。だが、熊本芝山巌会は会員の高齢化、減少により十数年前から自然消滅状態となった。
「このままでは郷土の偉人の記憶が消えてしまう」
17歳で早世した数馬については文書や資料も乏しい。危機感を抱いた県立大津高校の元校長、白
濱裕氏や日台友好団体の関係者ら30人が昨年10月、「平井数馬先生顕彰会」を新たに発足し、数馬
の顕彰活動を受け継ぐことにした。
白濱氏は大津高校長時代、熊本の高校で初めて台湾への修学旅行を実現させた。
顕彰会では顕彰活動の第1弾として2月1日、墓前慰霊祭を十数年ぶりに執り行う。
白濱氏は「数馬ら六氏先生に関する研究を深めながら、台湾の近代化に尽くした熊本出身者を発
掘し、顕彰する活動にも取り組みたい」と語った。
【用語解説】六氏先生
明治28年、日本の台湾統治後に初めて開校された学校「芝山巌学堂」に赴任したが、抗日ゲリラ
に襲われ殉職した6人の日本人教師。楫取道明(山口県、38歳)▽関口長太郎(愛知県、37歳)▽
中島長吉(群馬県、25歳)▽桂金太郎(東京都、27歳)▽井原順之助(山口県、23歳)▽平井数馬
(熊本県、17歳)。芝山巌学堂跡は、李登輝総統時代に「教育の聖地」として公園化も進んだ。