【Wedge ONLINE:2023年6月2日】https://wedge.ismedia.jp/articles/-/30437 (●=やすし。人偏に漢数字の八、八の下に月)
台北市街地東部の、東門や大安森林公園の近くに青田街という一角がある。台北市観光局のホームページでは、緑豊かなおしゃれスポットとして紹介されている。ガイドブックでも、日本家屋をリニューアルしたカフェやレストラン等があると書かれている。
そこは、日本が台湾を統治していた時代に昭和町と呼ばれ、当時の台湾帝国大学(現在の国立台湾大学)の教授などとして日本から渡ってきた人たちが日本風の家屋を建てたまちだ。実はこれら日本家屋の保存運動を台湾人が展開している。日本統治時代の名残とも言える街並みをなぜ、台湾人自らが残そうとしているのか。活動を行う社団法人台湾故郷文史協会理事長の黄智慧さんにこのまちを案内してもらうとともに、意義を聞いた。
◆日本家屋に詰められた台湾の歴史
再生されたカフェレストランの一つ「青田七六」(青田街の7巷6号が地番から名付けられた)は、当時建てられた典型的な日本家屋である。日本と違うのは亜熱帯の気候に耐えるため床が高い位置にあることくらいだ。
玄関を入るとすぐ応接間があり、そこだけは洋間となっている。広縁に沿って食堂、書斎、子供部屋、そして寝室となる座敷などがある。建築主はサトウキビの微生物研究者の足立仁氏で、北海道帝国大学から台湾帝国大学教授として赴任してきた。
日清戦争の後、日本が台湾を植民地にしたのは1895(明治28)年だが、亜熱帯で先住民によるゲリラが多い台湾統治は当初、うまくいかなかった。切り札として投入されたのが児玉源太郎総督と後藤新平民政長官だった。
民政を任された後藤は、台湾の風土に合った砂糖生産を企て、米国に滞在中の新渡戸稲造を台湾に呼び寄せて台湾に最適のサトウキビ品種を選定させた。同時に関連の農学、生物学などの若手学者を日本から集めた。サトウキビを精製するための工場を建設し、運搬のための道路を建設し、輸出のため基隆港をつくった。
そのため土木、港湾、工業など多くの若手学者や技術者も集めた。これらのうち多くが旧昭和町、すなわち現在の青田街周辺に住んだ。青田七六の建て主である足立仁もその一人である。青田街は日本による台湾統治と都市開発の歴史が詰め込まれた場所であると言える。
第2次大戦後、日本人が引き揚げた後は中国大陸から移ってきた地質古生物学の馬廷英氏がここに住んだ。「日本の大学で学んだ経験を有する馬氏がこの家を大切に扱ったおかげでこの家が残った」と黄さんは説明する。
馬氏の死後、だいぶ時が経ってから、台北市がこの家を国立台湾大学日本様式職員住宅として文化財指定し、カフェレストランとして2011年にリニューアルオープンした。
◆「ものを残して歴史を伝える」
黄さんに「台湾の人たちは日本統治時代の建物を残すことに抵抗はないのですか」と率直に聞くと「ものを残せば歴史が残ります。ものを壊してしまうと歴史が残りません」と強く語った。「この家は日本から台湾に知識を伝えた人が建て、戦後、大陸から渡ってきた人が住みました。これが台湾の歴史です」と話す。
黄さんは淡々と話すが、台湾の人たちは支配者が変わることによる悲惨な歴史をもっている。台湾総督府の近くに二二八和平公園という大きな公園がある。これは、二・二八事件という1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時の中華民国政権と台湾の人々との対立抗争事件を記念する公園である。
45年に第2次大戦が終わり、日本軍の武装解除は蒋介石国民政府主席が率いる中華民国政権が行った。台湾にも多くの軍人や官僚が中国本土から進駐し台湾の軍事・行政を引き継いだ。そういうなかで闇タバコを販売していた台湾人女性に対し取締の役人が暴行を加える事件が発生し、それに対する抗議デモと憲兵隊の発砲等による対立が激化し中華民国政権は中国から援軍を派遣し、武力でこれを鎮圧し多くの台湾市民が殺された。
49年に中国本土に共産党政権が樹立され蒋介軍と関係者が台湾に逃れてきたこともあり、このときの戒厳令はその後38年間継続した。事件の再調査が行われたのは李登輝体制になってからである。「二二八和平公園」という名が付き、事件資料を展示する二二八国家記念館ができたのは1996年である。
黄さんは、「日本家屋の保存運動は時間との戦いです」と現状を話す。「私は若い時、このまちのマンションから日本家屋の屋根を見下ろしていました。その頃は日本家屋の意味がよくわかっていなかった。今は歴史を勉強して、これが台湾の歴史のひとこまだと知っています。100年経った木造の日本家屋が朽ち果てて、次々と壊されていきます。歴史を伝えなければいけないと思い立って保存運動を始めました」と語る。
2023年現在、台北市が旧昭和町に登録した日本家屋の文化資産は23軒ある。黄さんたちがつくった地図では約100軒くらいあったという。黄さんは「朽ちかけた家を再建し、カフェやギャラリーにするためには日本円にして1億円から2億円かかります。お金が必要です」という。
保存された日本家屋の中には、ドイツのカメラメーカーであるライカのマークがついているものがあり、ライカ社が資金を提供したらしい。ライカ社のエルンスト二世がナチス政権下において多くのユダヤ人の命を救った歴史があるが、そういう志が台湾でも表れているというべきなのだろうか。
◆日本人が知るべき複雑な台湾の“起源”
私たちは有志で後藤新平の会をつくっていて、毎年、後藤新平の思想や実績に共通する業績を挙げた方に後藤新平賞を与えている。第1回の2007年は台湾の李登輝元総統に賞を授与した。
いくつもの政治的な困難をクリアして李登輝氏の来日が実現し、受賞に伴うスピーチも頂いた。そのとき李登輝氏は後藤新平に関して「台湾は日本の植民地だった時代があるが、それが台湾近代化の契機となったことも事実である」と話した。
筆者は『小説後藤新平』(学陽書房)を書いた1997年以来、毎年のように台湾を踏査している。植民地の象徴であった総督府は総統府として残し、その隣には当時の台湾銀行の建物が残されている。
総統府の1階にある歴史展示は数年ごとの内容が変わるが、後藤新平の紹介がされていたこともある。高雄の博物館でも後藤新平の業績が紹介されている。
台湾の一般書店で売られている書籍で「日本統治時代の台北の上下水道は当時の日本のそれより立派に整備されていた」などという記述を見ることもある。植民地の宗主国であった日本に対する台湾の人々の感情は複雑だとは思うが、少なくとも台湾近代化の歴史を記憶に留めようとする姿勢を感じることは多い。
現在の台湾では漢民族が9割以上を占めているが、もともと台湾には先住民(16民族、台湾政府認定)がいて台湾の言葉はオーストロネシア語族が元であるといわれ、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大していったとする説が有力である。ポルトガルやオランダの植民地だったこともある。
日清戦争後に日本の植民地となったが、黄さんは「第2次大戦が終わり30万人の日本人が引き揚げ、そのあとに100万人が大陸から台湾に渡ってきたのです」という。私たち日本人は台湾がそういう歴史を経験していることを念頭におかなければ台湾の問題を理解することはできない。
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青山● (あおやま・やすし)明治大学名誉教授1943年生まれ。67年東京都庁経済局に入庁。高齢福祉部長、計画部長、政策報道室理事を歴任。99〜2003年に石原慎太郎知事のもとで副知事。専門は自治体政策、都市政策、危機管理、日本史人物伝。『小説後藤新平─行革と都市政策の先駆者』(1999年、学陽書房・ペンネーム郷仙太郎で執筆)、『世界の街角から東京を考える』(2014年、藤原書店)『東京都知事列伝 巨大自治体のトップは、何を創り、壊してきたのか』(2020年、時事通信出版局)など多数。
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