戦後、占領軍によって廃止された軍人恩給は、サンフランシスコ条約発効後の昭和27年(1952年)に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定されて翌年8月に復活し、戦争従軍者およびその遺族への給付援護がスタートしている。
しかし、台湾と朝鮮出身の軍人・軍属はその対象から排除された。サンフランシスコ条約の発効で台湾と朝鮮が日本の領土から分離されたことにより、日本国籍を失ったからだ。恩給は日本国籍を有している者が対象とされた。
ところが、東京裁判(極東軍事裁判)では、台湾出身者173人が通例の戦争犯罪と人道に対する罪のBC級戦犯とされ、26人が死刑に処せられたという。
台湾や朝鮮出身の軍人・軍属は、一方では戦争犯罪人とされて死刑にもされ、一方では日本国籍を喪失したという理由で恩給から排除された。浮かぶ瀬のない、なんとも不条理な扱いを受けている。
このような不条理に義憤を覚えて立ち上がったのが、台湾独立運動の先駆者で台湾語研究者であり、台北高等学校で李登輝氏の1年先輩だった王育徳氏(1924年1月30日〜1985年9月9日)だ。
きっかけは、インドネシアのモロタイ島で1974年(昭和49年)12月26日に台湾出身軍人の中村輝夫・一等兵が発見されたことだった。台湾には日本から見放された元日本兵が数多くいることに気づき、早くも2ヵ月後の翌年2月28日には「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」を設立し、訴訟と議員立法を促す両面から活動を展開しはじめ、戦後補償問題に取り組んでいる。
その後、有識者、弁護士、台湾兵元上官、国会議員、一般市民など多くの日本人も支援したことで、12年後の1987年9月、台湾人元日本兵の戦死者遺族と戦傷者に一律200万円の弔慰金を支払う法律が制定されるに至っている。
その結果、日本赤十字社と中華民国紅十字会を通じて弔慰金の支給が開始され、1988年から1992年の4年間で2万8,147人に総額563億円が支払われたという。
以上のことは、去る6月22日に本会が開いた第46回台湾セミナーにおいて、講師にお招きした王育徳氏次女の王明理さんに「台湾人元日本兵士の補償問題─日本人が官民一体となって解決した戦後補償」と題して話していただいた内容だ。
この台湾セミナーには、産経新聞論説委員の河崎真澄氏も出席していた。河崎氏には中村輝夫・一等兵発見とその後の詳細をつづった『還ってきた台湾人日本兵』(文春新書、2003年刊)の著書があり、連載中の「李登輝秘録」の合間を縫って駆けつけていただいた。
昨日、産経新聞の「一筆多論」欄において、河崎氏は王明理さんの台湾セミナーで駆使した資料などを基に「台湾人元日本兵への補償」と題する一文を発表している。その記事を下記にご紹介したい。
河崎氏は、弔慰金の支払いは「確かに時期は遅すぎ、弔慰金も補償の範囲も決して十分ではない」と記す一方、王明理さんの「日本人の善意を感じた」という感懐も併せて紹介している。
それにしても、台湾出身の軍人・軍属の国籍は日本から中華民国に変わったとは言え、日本人として従軍したのである。戦い終わった後に制定された法律で恩給対象から排除されている。違和感は拭えない。
恩給の根拠は、戦後変更された国籍ではなく、日本人として戦ったことに求められなければならないのではないだろうか。弔慰金という一時払いで済ましたままでいいのだろうか。
—————————————————————————————–台湾人元日本兵への補償 河崎 真澄(産経新聞論説委員)【産経新聞「一筆多論」:2019年8月20日】
大東亜戦争で当時、日本の統治下にあった台湾からも「日本兵」として20万人以上が軍人や軍属として出征し、このうち3万人以上が亡くなった。だが、台湾出身者は戦後、日本国籍を喪失したため政府補償を受ける資格を失っていた。
他方、捕虜監視などで罪に問われた台湾人元日本兵約200人もBC級戦犯で有罪判決を受けている。
公平性を著しく欠くとして昭和52年から、台湾人元日本兵が日本政府を相手取り、平等な補償を求めて起こした訴訟は最高裁まで争われたものの、国籍が壁となり訴えは退けられた。
それでも同じ日本軍の一員として戦場に向かった台湾人に、可能な限り報いたいと考えた人々がいた。62年9月、議員立法で「弔慰金」制度が作られ、平成4年まで総額約563億円が支給された事実がある。
日本でも台湾でも忘れ去られつつあるが、「戦後補償で成功した希有(けう)な例ではないか」と、台湾独立建国連盟の日本本部委員長を務める王明理さんは話す。
きっかけは、終戦を知らぬままインドネシアのモロタイ島に潜伏していたところを、49年12月に発見された台湾先住民出身で元日本兵のスニヨンさん(日本名・中村輝夫)の生還だ。
このとき未払い給与などの名目で日本政府から支払われたのは、わずか6万円ほど。義援金は集まったものの、この元日本兵より前に生還した横井庄一さんや小野田寛郎さんへの補償との落差や冷淡な対応に、義憤を感じた人物がいた。
台湾南部で生まれ、戦後の国民党政権による弾圧から逃れて日本に政治亡命していた明治大教授の王育徳氏だった。王明理さんの父だ。王氏は50年2月、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」を結成し、事務局長として、署名集めや政府、議員らへの陳情、訴訟の支援に走り回った。
無償で協力した7人の弁護団や、戦地で台湾出身者と親しかった元日本兵、戦後生まれのボランティアら支援の輪も広がったが、さらに「縁」が味方した。
王氏が15年から17年まで学んでいた旧制台北高等学校のOBの存在だ。衆院議員だった有馬元治氏もそのひとりで、政府や国会などの調整を買って出た。
2審の東京高裁では偶然にも、王氏の台北高同級生が裁判長として現れた。
吉江清景氏だ。60年8月に吉江氏は、原告の訴えを退けるのはやむを得ないと司法上、判断したが、そこに異例の付言をつけた。
「控訴人が同じ境遇にある日本人と比べて著しい不利益を受けていることは明らか。外交上、財政上、法技術上の困難を克服、早急に不利益を払拭することを国政関与者に期待する」
この付言が62年の議員立法を後押しした、と王明理さんは考えている。台北高OBは台湾人の心情を理解していた。王氏は吉江氏の判断の翌月、心臓発作のため急死したが、その思いは関係者に引き継がれた。
台湾では元日本兵への補償問題で、「戦後の日本人は血も涙もない」と憤る声があった。確かに時期は遅すぎ、弔慰金も補償の範囲も決して十分ではない。
しかし、王明理さんによれば、台湾と外交関係のない中で、日本政府は日本赤十字社を通じた戦没者らの調査をキメ細かく行い、弔慰金の支払いでも努力を惜しまなかった。「日本人の善意を感じた」という。(論説委員)