台湾で目覚めた優しき感性─「ぞうさん」の詩人まど・みちおの生涯  有田 順一

【nippon.com:2021年2月28日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01042/

 童謡「ぞうさん」「一ねんせいに なったら」などで知られる詩人まど・みちおさん(1909-2014)。2月28日に7度目の命日を迎えた。子どもたちが日常話す言葉で、モノの真理や本質をうたい、1994年、国際アンデルセン賞作家賞を受賞、宇宙に抱(いだ)かれ愛に溢れた世界観は、多くの人々を魅了した。その詩心が芽生え花開いたのが、日本統治時代の台湾であった。

◆たった1人取り残された5歳の寂しさ

 まどさんは、1909年11年16日、山口県徳山町(現在の周南市)に生まれた。本名・石田道雄。祖父母と両親に兄・妹の7人家族だった。祖父は隠居の身で、一家の支えは養子であった父の肩にかかっていた。そこへ台湾の知人から俸給のいい仕事の誘いが舞い込んだ。

 まどさんが3歳の時に父は先に台湾へ渡り、生活の基盤を整えたところで、母と子どもたちが合流するはずだった。しかし、ある日、目が覚めると、母は兄と妹を連れて台湾へと発った後で、まどさんだけが祖父母の元に取り残されていた。父から祖父母への仕送りを保証するため、まどさんはおいて行かれたのだ。

 当時5歳、半年後には祖母が亡くなり、祖父と2人きりの生活は寂しくて仕方がなかった。大好きな母や兄妹の声が消えた家で、気持ちをまぎらしてくれたのが、周辺に広がる里山の自然だった。草花や虫たちと触れあうことで心を癒し、感性はしだいに研ぎ澄まされていった。この一番辛い時期に五感で感じたすべてのことが、詩人としての原点であると言われている。

 小学校3年を終えると台湾へと渡り、4年ぶりに家族がそろったが、すぐになじむことはできず、わだかまりが消えるまでは時間がかかった。台北の城南小学校、末広高等小学校を経て、台北工業学校土木科へ進学。1年生で作文がほめられて以来、書くことが好きになり、5年生の時には、他校の生徒と同人誌『あゆみ』を作り、詩を発表するまでになった。

◆北原白秋に認められ童謡の世界へ

 19歳で台北工業学校を卒業すると台湾総督府道路港湾課へ就職した。当時、台北から高雄までの縦貫道路の工事が行われており、本庁と現場を往復しながら測量、設計、施工に携わった。はじめて担当したのが新竹の客雅渓橋であった。人生を語り合う仲になった同僚に誘われ、台北ホーリネス教会で洗礼を受けた。いつしか、まどさんは台湾の地にしっかりと根を下ろしていた。

 24歳の時、その後の人生を変える出来事があった。絵雑誌『コドモノクニ』で北原白秋が選者の童謡募集に投稿し、「ランタナの籬(かき)」「雨ふれば」の2編が特選となったのだ。まどさんは、以前から「子どももの」に挑戦したいと思っていた。この想像以上の結果は、嬉しいを通り越し、何らかの確信をつかんだのだろう。初めて書いた童謡が、くしくも将来を決めることになったのである。

 子どものための童謡と詩に没頭し、『動物文学』『童魚』など様々な雑誌にも投稿するようになった。白秋門下の詩人、与田凖一から東京に来ないかと誘われるほどに、童謡作家として一目置かれるようになった。まどさんは、それに応えて、自分なりの考え方や人生観をまとめていく。1935年、『動物文学』に散文詩「動物を愛する心」を発表した。

 「路傍の石ころは石ころとしての使命をもち、野の草は草としての使命をもっている。石ころ以外の何ものも石ころになる事は出来ない。草を除いては他の如何(いか)なるものと雖(いえども)も、草となり得ない。(中略)だから、世の中のあらゆるものは、価値的にみんな平等である。みんながみんな、夫々(それぞれ)に尊いのだ。みんながみんな、心ゆくままに存在していい筈(はず)なのだ。」(「動物を愛する心」)

 この時点において、人間も生物も無生物もすべてのものは平等で尊いという「みんながみんな、夫々に尊いのだ」という生涯を貫く基本理念が出来あがっていることが分かる。

 翌年には、総督府を辞め、創作活動に専念する。28歳の時に、水上不二らと同人誌『昆虫列車』を創刊(1939年廃刊)した。ここでも童謡研究を突き詰め、「童謡の平易さについて」「童謡圏─童謡随論一、二」を発表、理論的にもかなり成熟した内容だった。しかし胆のう炎と眼を患い上京は諦めている。

 一方、時代は大きく動いていた。同年、中国で盧溝橋事件を発端に日中戦争が勃発。国家総動員法も成立し、1941年には、ついに太平洋戦争へと突入した。台湾でも臨戦態勢を強いられていたのではなかろうか。

 そんな合間の1938年、まどさんに、一時の幸せがやって来る。台北州庁土木科へ再就職し、翌年、鹿児島出身の永山寿美と結婚、長男・京が生まれた。しかし、1940年、文学雑誌『文芸台湾』へ詩、童謡、散文詩を発表して以降、投稿数は少なくなっていく。

 1942年、ミッドウェー海戦を境に暗雲が漂いはじめる。まどさんの詩も一部は戦争を意識したものになった。同年11月2日、北原白秋永眠。悲しみに暮れる間もなく召集令状が届き、南方戦線に従軍、シンガポールで終戦を迎えた。

◆仕事漬けの編集者時代に生まれた童謡「ぞうさん」

 1946年に復員し、川崎の工場で守衛の仕事に就いたが、前出の与田凖一の計らいで、『コドモノクニ』(後の『チャイルドブック』)の編集に携わることになった。教科書などの出版も担当し、残業・徹夜続きの激務だったが、1951年41歳の時に音感教育家の酒田冨治から童謡の作詩依頼を受けた。即興で書いた6編のうちの1編が「ぞうさん」だった。出来上がった楽譜集を見た先輩の童謡詩人の佐藤義美が、「おはなが ながいね」を「おはなが ながいのね」に変えて、NHKに持ち込み、作曲家團伊玖磨の曲がついた。そして1952年NHKラジオで流れるとたちまち全国で歌われるようになった。

 ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね

 日本人なら誰もが知っている戦後を代表する童謡である。まどさんは、この歌について後年、動物が動物として生かされていることを喜んでいる歌だと言った。そして「お鼻が長いのね」と悪口を言われた象の子が、「一番大好きなお母さんも長いのよ」と誇りを持って答えたのは、象が象として生かされていることが、すばらしいと思っているからと注釈も残している。これは、26歳の時に発表した「みんながみんな、夫々に尊いのだ」という精神そのものだ。

 まどさんは、理念はそのままに、自分の思ったことや感じたことを言葉と文体だけで表現したくなった。59歳の時、第一詩集『てんぷら ぴりぴり』を発表、自由詩に転向していく。そして、83歳で、1994年国際アンデルセン賞作家賞に輝いた。その理由の第一には、人間ばかりでなく、象のように大きな動物も、蚊のようにちっぽけな虫も、草や木や、石ころでさえも、森羅万象はそれぞれ平等に存在意義を持っていることを、聞くもの、読むもの、見るものたちに、静かに、ユーモラスに、時には苦みをさえ交えて訴えかけてくるとある。この哲学こそが、国を超え、人種を超えて受け入れられたのである。まどさんは、それからも、たゆまず詩を書きつづけ、2014年2月28日、104歳で亡くなった。

 「みんながみんな、夫々に尊いのだ」という理念は、徳山の思い出を土台に精神を形成していった台湾時代に形づくられたものだと思う。台湾での生活は、9歳から33歳までの24年間。そこで、言葉、人種、風土の壁を超えた地球的な視野が生まれ、宗教に出合うことで宇宙的な価値観が広がっていったのではないのか。まどさんの素晴らしさは、この理念と生き方が一致しているところにある。まずモノと向き合い、次に苦しい模索があって、ようやく磨きぬかれた日本語の結晶が生まれてくる。石田道雄は、台湾で、詩人まど・みちおに生まれ変わったのである。

・参考文献  阪田寛夫『まどさん』新潮社 1985年 谷悦子『まど・みちお 童謡と詩』創元社 1988年 伊藤英治編『まど・みちお全詩集』理論社 1992年 伊藤英治・市河紀子編『続 まど・みちお全詩集』理論社 2015年

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有田 順一(ありた・じゅんいち)周南市美術博物館館長。1955年、山口県徳山市(周南市)生まれ。日本大学芸術学部卒業。2010年から現職。詩人 まど・みちおと30年以上にわたって交流。童謡や詩作以外に、画家としての一面にも注目し「まど・みちお え てん」(2009年)、「まど・みちおのうちゅう」(2015年)、「生誕110年 まど・みちお てん」(2019年)などの展覧会を企画・開催。

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


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