人民元で満たせぬ渇望 [林 望]

東京で「第4回台湾建国烈士 鄭南榕先生を偲ぶ会」が開かれた4月6日、朝日新聞の
「風」というコラムに、林望氏の「人民元で満たせぬ渇望」が掲載された。

 中国の圧政下で遅々として進まぬ香港の民主化の現状を憂える中、最後に鄭南榕が自
決した編集室を訪ねる場面が描かれている。林望氏は「台湾民主化への熱気の、一つの
原点といっていい」と結ぶ。

 日本の新聞に鄭南榕の名前が出てくることは、まずない。その点でも稀有のコラムだ。
このコラムを読んで、ぜひ鄭南榕が自決した「黒々と焼けただれたままの一室」を訪ね
たいと、本会に問い合わせてきた日本人の方からこのコラムのことを知った。林望氏の
このコラムを本誌読者の方々にも呼んでいただきたいと思い、ご紹介する次第だ。
                                   (編集部)


人民元で満たせぬ渇望

                                   林 望

【4月6日 朝日新聞「風 香港」】

 89年6月、香港。当時中学2年生だった黄瑞紅さん(30)は深夜、泣きながらテレビに
見入る両親の姿におびえた。翌日、兄と姉に連れられて初めてデモというものに加わっ
た。民主化を求めた多くの学生に中国軍が銃弾を浴びせた天安門事件。黄さんの記憶は、
民主化を求める多くの香港人の原体験だ。

 彼らを取り巻く環境は厳しい。香港では昨年11月の区議選で民主派が惨敗。弁護士に
なった黄さんも初めて挑んだが落選した。香港の返還に当たり中国が約束した行政長官
などの直接選挙の全面実施は、遅々として進まない。

 06年2月、北京。民主活動家の胡佳さん(34)は突然、当局の車に連れ込まれ、黒い
布袋を頭からかぶせられた。連れて行かれたのはカーテンで閉ざされた部屋。仲間の動
きを尋問され、殴られた。抗議の絶食をする胡さんに、男たちは「死なすわけにはいか
ない」と、チューブを鼻から差し込んだ。41日間続いた拘束で、体重は10キロ減った。

 北京五輪を控える中国では活動家の拘束が続き、胡さんは昨年末、「国家政権転覆扇
動容疑」で逮捕され、今月3日に懲役3年6カ月の実刑判決を受けた。胡さんら反体制派
への弾圧や、チベット騒乱の鎮圧は、天安門事件で刻まれた恐怖を黄さんらに思い起こ
させている。
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 今、香港のショッピングモールはブランドショップの大きな紙袋を提げた中国の観光
客であふれる。香港経済は中国の企業や観光客がもたらすマネーで復活した。8%を超
えた失業率は4%を切り、バブルが懸念されるほどだ。「民主化は望むが、中国と対立
してまで急ぐ必要はない。そう考える市民が増えている」。香港城市大の宋立功・首席
講師が指摘する。

 存在感を増すチャイナ・マネー。豊かになりつつある中国の象徴であり、人を強く引
きつける一つの価値だ。

 「すごい矛盾です。苦労してきたのを知っているから祖国の発展は本当にうれしい。
でも、豊かになるほど民主や自由が忘れられていくようで」。黄さんの中にせめぎ合い
がある。

 3月の台湾総統選も、チャイナ・マネーとどう向き合うかがテーマとなった。結果は
「このままでは香港との差が広がる」と、交流拡大を訴えた国民党が大勝。中国への不
信や反発より、現実の豊かさを求める人が増えている。

 だが、政権交代が決まった夜、敗れた民進党の謝長廷(シエチャンティン)氏は「民
主主義の敗北ではない」と語り、勝った馬英九(マーインチウ)氏は「同感だ」と応じ
た。それを聞きながら双方の支援者が泣いた。長い闘いの末、自分たちの一票で指導者
を選ぶ権利を得た台湾の人々の誇りがそこにあった。
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 投票日の数日前、台北市内の小さなビルを訪ねた。選挙カーの音も届かぬ裏通り。黒
々と焼けただれたままの一室が残されている。80年代、国民党の専制に反抗し続けた「時
代週刊雑誌社」だ。

 89年1月。鄭南榕編集長が検察の出頭命令を拒んで立てこもり、ビルを囲む警察隊と
にらみ合っていた。

 「国民党が手にできるのは、私のしかばねだけだ」。同年4月、鄭氏はそう言ってガ
ソリンに火を放ち、憤死した。台湾民主化への熱気の、一つの原点といっていい。

 中国にとって中台統一は悲願中の悲願。このところ、「党内民主」を声高に言い始め
ている中国の指導部は、富の力だけでは達成は難しいと分かっているのだろうか。

 北京の胡さんはこう言った。「専制体制がある限り何も変わらない。必要なのは名君
でなく、僕ら庶民の一人ひとりが法治や自由のために何をなすかだ」

 香港、中国、台湾の民主主義の水脈。経済成長の陰に隠れがちだが、互いにどこかで
響き合いながら流れている。



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