バシー海峡の戦没者慰霊祭  越野 充博(本会常務理事・JET日本語学校理事長)

東京が、おそらくは世界中で一番暑い首都であったろう、その日。私は台北に向かう機上にい
た。今回の台湾訪問の主たる目的のひとつは「バシー海峡戦没者慰霊祭」への参列である。

 台湾とフィリピンの間のバシー海峡では、大東亜戦争後半、米軍により多くの日本の艦船が撃沈
され、その戦没者数は、10万人とも20万人以上とも言われている。

 ここで、所属部隊の一員として乗った輸送船の撃沈により、海上を12日間も漂流、奇跡的に生き
残った中嶋秀次(なかじま・ひでじ)氏の、戦友へのひたむきな鎮魂の思いが、日本人はもとより
台湾人の心も動かし、35年前、バシー海峡を臨む丘の上に、潮音寺(ちょうおんじ)が建立され
た。これらのエピソードは、作家・門田隆将氏の名著『慟哭の海峡』に詳しく描かれている。

 本書の中にもある通り、大東亜戦争は、大正世代が第一線で戦った戦争である。実に成人期男子
の7人に1人が戦死しているという。私の父も中嶋さんと同じ大正10年生まれである。父は、幸いに
して国内に配属されていたので、生きて終戦を迎えることができた。そして家族を作り、守り、懸
命に働き、結果として日本の戦後復興、高度成長の一翼を担ったことになる。この世代の犠牲と奮
闘なくして今日の日本はない。昨年の暮『慟哭の海峡』を読了した私は、門田さんともお話しする
機会を得て、いつか潮音寺にお詣りしなくては、との思いを募らせていた。だから、そこに来た
「バシー海峡戦没者慰霊祭」の案内は、天の配剤に思えたのである。

 8月2日に執り行われた慰霊祭は、台湾在住の若い人たちを中心に組織された実行委員会が主催し
た。委員長を務めた台北在住の実業家、渡邊崇之(わたなべ・たかゆき)さんは語る。

「本来は日本の国家が管理すべき慰霊施設の潮音寺が、台湾人の善意によって支えられている体制
から、日本国民の善意と現地日本人、台湾人による協力で賄われる体制へと変わっていかなければ
いけません」

 紆余曲折を経て、潮音寺が今日まで維持されてきたのは、長年の中嶋さんの支援者であり、現在
の地権者の鍾佐榮氏と寺の管理者の李陽明氏のお力によるものだが、もうそれも限界にきていると
いう。少なくとも1972年断交以降の日台関係、とりわけ日本政府の絡むべき事象の多くが、物言わ
ぬ台湾人の善意に支えられてきたと言っても過言ではない。そのことを肌で感じ、これではならじ
と行動された渡邊さんたちの奉仕の精神と心意気に、まことに頭の下がる思いである。

 現在、日台の交流は、過去最高の好感度レベルにあるといわれている。私の小さな日本語学校に
も、入学希望の台湾人学生が引きも切らない。しかし一方で、親日のバックボーンたる日本語世代
は80歳をはるか超えた。私たちはもう、耳に心地よいエールに満足せず、こちらから一歩も二歩も
踏み出さねばならないだろう。巨大独裁国家が台湾併呑を宣言して久しく、日本の領海に侵犯を繰
り返している状況下、国家の尊厳を守り、国民が自由と民主主義を謳歌し、繁栄し続けていくとい
う目的で、我が国と台湾の国益が一致するのは明らかなのだから。

 潮音寺での厳かな慰霊祭を終え、私たちは台湾最南端、バシー海峡を臨む鵝鑾鼻岬に向かった。
太平洋から吹く風は強かったが、不思議と集まった人々のざわめきは聞こえない。

 「静」とは、青が争うさまだということがわかる。文字通りの紺碧の空が天を覆い、水平線近く
で白くぼかしがはいっている。海は沖にゆくほど深く、碧い。岬に打ちつける白波も、返せば真夏
の陽光を映してきらりと光り、青の中に沈んでゆく。今なお海の底深く眠る英霊に手を合わせる。
亡き父が脳裏に浮かぶ。なぜか困ったように微笑んでいた。

                     【機関誌「日台共栄」10月号:「台湾と私」(38)】


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