【読者の声】台湾の地質研究者(6) 早坂一郎 [地質学研究者 長田 敏明]

地質学研究者の長田敏明氏からの第6弾として、台湾地質学の父とも言える「早坂一
郎」について投稿していただきましたのでご紹介します。長田氏によりますと「しばら
くの間、台北帝国大学の地学研究者をあげていきたい」とのこと。文系の人間にとって
はほとんど未知の世界ですので楽しみです。              (編集部)


戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝(6) 早坂一郎(1891-1978)

                           地質学研究者 長田 敏明

 早坂一郎の業績や生涯などの詳細については,長田(2004MS及び2004)を参照された
い。ここでは概略のみを記す。

 早坂一郎は、明治24(1891)年12月6日、仙台市東三番丁で早坂哲郎・柳子夫妻の5男3女
の長男として生まれた。父の早坂哲郎は、宮城高等女学校(現在の宮城学院女子大学)
の数学の教員であった。

 早坂は、東北学院普通部、旧制第二高等学校二部(理科)を経て、明治44(1911)年、
東北帝国大学理学部地質学古生物学教室の第1期生として優秀な成績で卒業した。そのま
ま同大学院に進学し、2年半後、大学院を中退して同大学の教授補助となる。その後、新
潟県西頸城郡の青海石灰岩の研究を行い理学博士の学位を得た。指導教授は矢部長克で、
当時の日本では知られていなかった下部石炭系の存在を腕足類化石を用いて明らかにし
たもので、この点が特に評価された。

 大正9(1920)年、東北帝国大学の助教授に就任し、大正15(1925)年に、台湾総督府
から在外研究と海外の大学事情の視察をかね欧米に出張する。

 昭和3(1928)年4月の帰朝とともに、台北帝国大学理農学部に教授として迎えられる。
台北帝国大学では地質学教室を主宰し、林朝啓、顔滄波、黄敦友、王源などの多くの台
湾人の地質学者を養成し、今日の台湾地質学の基礎を作った。

 昭和16(1941)年に理学部と農学部がそれぞれ独立すると、初代の理学部長となる。
また早坂は、日本人であると否とにかかわらず平等に扱い、分け隔てなく教育にあたっ
た。早坂は、日本だけでなく多くの外国人の学者とも知己があり、特に専門の関係から
中国在住の学者と知己があった。

 早坂は、ドイツ系アメリカ人古生物学者のグラボー(Grabau)宛に昭和17(1942)年10
月3日付けで手紙を送っている。地質学史上重要な資料であるので、以下にこの手紙を原
文のまま掲載する。なお、この手紙の入手にあたっては、国立台湾大学地質科学系地質
標本館の陳利陵女史にお世話になったことをここに明記する。

                                 Oct.3,1942
Dear Dr.Grabau,

 Since my last visit to Peking four months have passed,and I feel very sorry
that I have not written to you until now.It is rather awkward for us now to
write to foreign friends.

 But fortunately a friend of mine is leaving for Peking in a few days, and I
asked him to carry this letter and a few short papers to Mr. Lin,my former
student whom I accompanied to your home in summer,and whom I asked to convey
these things to you as soon as they reach him.I hope they will be received by
you safely.
 I am very glad that I could see you in summer,more than twenty years since
we first made acquaintance.Your activity during these years have always been
an encouragement to me,though,on my part,owing to certain unfavorable
conditions,not much has been done.
 It is my great pleasure to recollect my visit to your home this summer where
you so kindly had a tea party for me.I hope I could see you again in the near
future; these are a few Chinese colleagues too whom I shall be pleased to meet
again. But,this journey is by no means a pleasant things nowadays.
 Sometimes ago I sent to Mr. Lin the list of your works that are in my private
library which I expect has been handed over to you.
 There are only a fraction of the great total of your works.I shall be very
much obliged to you if you would kindly fill the list,if partially.Mr. Lin
will manage to send them over to me.
 It is getting colder in Peking,
 I am afraid.You will take good care of yourself though the winter, I hope.
My best wishes to you secretary,whose name,I am sorry,I have not remember.

                             Very sincerely yours,
                                Ichiro Hyasaka

 上記の手紙の内容を要約すると次のようである。

 早坂は「今、外国人に手紙を送ることは、時勢上、はなはだ困難であるので、ちょう
ど中国に行くことになっている林朝啓君にこの手紙を託す」としている。また、「私(
早坂)のところにはあなた(グラボー)に関する文献がいくつかあるが、その文献集を
完全にするために、あなた(グラボー)に私が林君に託したリストに載っている文献を
送ってもらえないですか」ということを依頼した手紙である。

 早坂がグラボーと面識があり、しかも相互に訪問しあっていたことが伺える手紙であ
る。

 台北帝国大学は、日本の敗戦に伴い、本部は昭和21(1946)年12月に引き上げを完了
した。しかし、早坂はその後も留用されて台湾にとどまり、さらに閑却された台湾の人
々の教育にあたった。

 昭和24(1949)年8月留用を解かれ帰国し、石灰藻化石の専門家である市川渡の要請で
金沢大学教授となり、昭和25年からは、第四紀および珊瑚化石の専門家であった湊正雄
の要請で北海道大学教授を兼務した(柴田松太郎氏私信)。

 昭和30(1955)年には双方の教授を定年退官して東洋大学教授となり、昭和33(1958)
年には島根大学の総長兼教授として学生の指導にあたった。昭和37(1962)年には帰京
し、日本女子体育大学や玉川大学などの教授を歴任している。昭和53(1978)年8月18日
に急性心不全で死去した。


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