明氏から、戦前の台湾において地質調査に従事した日本人地質学者で、台湾総督府の技
師だった大江二郎についての投稿を掲載しました(7月15日発行、第567号)。
第2弾として、台湾鉱物学の先駆者で、「北投石」の発見者である岡本要八郎について
投稿していただきましたのでご紹介します。
なお、掲載に当りましては、元号を先に記して西暦を括弧でくくり、字句の訂正や句
読点の付け直しなど少し編集させていただいたことをお断わりします。 (編集部)
戦前の台湾の地質学研究史−地質研究者伝(2) 岡本要八郎(1876-1960)
地質学研究者 長田 敏明
岡本要八郎は、正式な鉱物学の教育を受けたわけではなく、独学で鉱物学を勉強した。
日本鉱物学の黎明期に、台湾にあって多大の貢献をした人物である。通常の業務は国語
教師であった、いわば立志伝中の人物である。
岡本要八郎については、日本地質学会60周年記念誌(昭和28年:1953年)に岡本自身
が書いている「昔の地質学雑誌」及び台湾総督府発行「台湾鉱物調査報告」(明治44年
:1911年)・経済部中央地質調査所発行の地質24巻3号の「地質専題−発現北投石100
年」(平成17年:2005年9月発行)によって記載する。
岡本要八郎は、愛知県に明治9年(1876年)に生まれ、旧制三重中学(現在の三重大学)
を同29年(1896年)に卒業した。三重中学卒業後、郷里の愛知県三河に帰省した。その
時、生来鉱物採集が好きで好きでたまらなかった岡本は、郷里の野山を駆けめぐってあ
らゆる鉱物を採集していた。
岡本のことを東京帝国大学の鉱物学の教授である神保小虎から聞いた比企は、岡本の
もとを訪れた。岡本が青鳥山において採集した電気石やベルリ石について、当時、学生
であった比企忠(後の東京帝国大学の鉱物学の教授)が、岡本のもとを訪ねたのである。
比企は、岡本からこれらの鉱物に関する情報を得た。
その後、福地信世、吉田弟彦、東条英一などの著名な鉱物学者各氏が、岡本のもとを
訪れた。明治30年(1897年)には、東京高師の鉱物学の教授であった佐藤伝蔵らが岡本
のもとをおとずれた。この時、愛知県幡豆郡各地の鉱物産地を案内した。また、岡本は
同年暮れに、佐藤を三河の段戸山に案内し、これらの採集品については、翌年、佐藤伝
蔵によって『幡豆郡鉱物誌』としてまとめられた。
岡本は明治32年(1899年)に渡台し、台中の中学校の国語科の代用教員となった。そ
のときに地質学会の会員となるが、1899年の会員数は計128名で、外地会員は浜野弥四郎、
斉藤譲、岡本要八郎の3名のみであった。
これ以後の30余年は台湾島の島民の国語教育が本務であったが、明治41年(1908年)
からは台湾殖産局鉱務課の仕事を兼務し、台北の博物館では鉱物部門の調査官を兼務し
た。
この間、岡本は、基隆川のジルコンや大屯山の角閃石(後に金瓜石のエナージャイト
であることが判明した)などの鉱物を、鑑定のために神保小虎へ送ったりした。これら
の鉱物標本は神保を通じて和田維四郎へと渡った。和田の編集になる「日本鉱物誌」に
は、岡本が送付したこれらの鉱物が記載されている。
岡本は大病をするが、「日本鉱物誌」を送られたときは歓喜したという。以後、岡本
には和田維四郎と神保小虎の著書やBeitrageが送られた。
岡本の最大の発見とされるのが、明治38年(1905年)に台北近傍の北投温泉で発見し
た「北投石」である。当初、神保によって新鉱物と認定されたが、現在では放射性の重
晶石とされている。
刊行間もない初期の地質学雑誌には、雑録や雑報に新発見の鉱物についての情報が掲
載されている。岡本にとっては、このうち篠本二郎、高荘吉などの短報や集録が楽しみ
であったという。地方の会員では、長野の保科百助、八木貞助、福井の市川新松なども
地質学雑誌の寄稿者であった。