それにしても、これまで行政院長には陳菊・高雄市長の名前が上り、頼清徳・台南市長は新北市長に出馬するのではないかとの観測が少なからずあった。朝日新聞台北支局長だったジャーナリストの野嶋剛(のじま・つよし)氏は、蔡総統も頼市長も「最後まで迷っていたとされ、最後は陳菊・高雄市長ら党内の長老らから説得される形で2人ともこの人事を受け入れたようだ」とその背景を述べている。
また、人気と実力は折り紙つきの「頼神」とも呼ばれる与党ホープの頼清徳という「最強カード」を切ったものの、一方で失敗するリスクも高いと指摘する。それだけ蔡総統は苦境にあるという。下記にその一文をご紹介したい。
台湾人のみならず、少なからぬ日本人の期待をも一身に集める頼清徳・新行政院長だ。中国、米国、日本にどのような対応をとるのか、今後の動向を注意深く見守りたい。
—————————————————————————————–「頼清徳」という「最強カード」を切った蔡英文の「苦境」 野嶋 剛【新潮社フォーサイト:2017年9月7日】
台湾政治に、久々の激震が走った。台湾で「最も次の総統に近い男」とみられてきた頼清徳・台南市長が行政院長(首相に相当)に任命されることになった。現職の林全氏は退任する。この人事は、政権運営の拙さから支持率が3割前後に低迷する蔡英文・民進党政権にとって、大衆人気が高い頼氏を救世主としたい狙いが大きい。次の総統選挙までの中間選挙にあたる、2018年11月の地方選挙に向けた「選挙内閣」の性格も濃厚だ。
◆「頼神」と呼ばれる男
頼氏は、現在57歳で、台南市長の2期目を務めていたが、任期半ばで市長を辞して台北に乗り込む形だ。「頼神」と異名をとるほど何をやってもうまくやってのけ、ハンサムな容貌と演説のうまさなどカリスマ性は十分。本来、巡り合わせさえ良かったら、蔡英文総統の代わりに2016年の選挙で総統になっていてもおかしくない人材だった。
もちろん本人も野心満々で、蔡氏の「次」を念頭に置きつつ、今回の行政院長ポストを受けたとみられる。人気、実力は折り紙つきだったが、中央での政治経験がなく、政権ナンバー2にあたる行政院長はその意味では格としてもふさわしい。2018年の地方選挙で、最大人口の新北市選挙に出るべきだとの意見も党内にはあったが、本人の意欲が薄かった。
台南市長の在任中は、日本との交流を積極的に進めたほか、今年1月には日本記者クラブで日台関係に関する講演も行っており、普段から親日家をアピールしている。一方、中国に対しては台湾の立場を譲らない発言が多く、中国からは「独立派」と警戒されるきらいもあったが、最近は「自分は親中愛台だ」と発言してバランスを取る動きも見せている。
パフォーマンス下手でアピール力に欠ける蔡氏の欠点を補うことができる「ゴールデンコンビ」になり、うまくいけば政権浮揚の特効薬になることは間違いない。しかし、頼氏が行政院長になることは、蔡氏にとっても、頼氏にとっても、少なからぬリスクがある決断であった。
◆お互いにとってのリスク
両人とも最後まで迷っていたとされ、最後は陳菊・高雄市長ら党内の長老らから説得される形で2人ともこの人事を受け入れたようだ。蔡氏と現職の林氏は長年の政治活動のパートナーで、蔡氏は現段階での交代を望んでいなかったとも言われるが、政権の低迷の責任を事実上林氏にとらせる形で党内のガス抜きを行う必要に迫られた形だった。
蔡氏と頼氏のコンビの最大のリスクは、どちらも頑固で気が短く、他人から指図されることを好まない個性にある。似た者同士とも言えるが、それゆえにあまり相性がよくなく、蔡氏が2008年に民進党のトップに就いて以来、選挙運動などで意見の食い違いもあり、2人の間には冷たい空気が流れていた。
昨年冬、蔡氏から頼氏に対して、総統府の秘書長にならないかと打診があった。秘書長とは総統の黒子のような存在で、政治家として生きてきた頼氏にふさわしいものではない。案の定、頼氏は要請を断り、蔡氏に対する不信感を強めたとされる。
そうした過去のわだかまりを乗り越えて、2人がうまく協力しながら政権運営を進めていけるかどうか。頼清徳という「最強のカード」を切ってしまった以上、ここで失敗すれば、蔡氏の2020年の総統選での再任に対しても、党内外から疑問符がつくことになるだろう。
同時に頼氏にとっても、「失敗しない男」という神話が、難題山積の台湾政治の舵取りのなかで傷つき、カリスマ性に翳りを生むこともありうる。
◆「険棋」の一手か
台湾の政治体制では、総統の意向を受けた政策を行政院長が実行に移す。総統をCEO(最高経営責任者)にたとえるならば、行政院長はいわばCOO(最高執行責任者)のような役割である。総統の補佐役に行政院長が徹することができるならばうまくいくが、行政院長の個性や意見が強すぎる場合、あまりうまく機能しないシステムとなっている。
政権で大きなトラブルが起きると、とりあえず責任を負わせて真っ先に首を切られるので、2000年以降の行政院長の平均在任期間は1年3カ月と短い。蔡氏との関係がうまくいかず、政権の運営でも失敗が目立てば、頼氏でも切られる可能性はゼロではない。
中国語には「険棋」という言葉がある。将棋のなかで、非常に有効に見えるが、一方で失敗するリスクのある一手、という意味だが、よく政治などにも用いられる。頼清徳氏の行政院長起用はまぎれもなく「険棋」だ。
それぐらい蔡英文政権は、現在、年金改革や労働法の改正問題、政権の説明能力不足などで社会から厳しい批判を浴びて苦しい立場にあり、「切り札」頼氏の起用がいささか早すぎる一手であることを承知で、あえて打つしかなかった形である。(野嶋 剛)