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写真:2000年5月、大陸委員会主任委員として立法院の委員会に出た蔡英文氏=台湾・中央通信社
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台湾総統の蔡英文(ツァイインウェン)が表舞台で注目を集めるようになったのは2000年、初の
民進党への政権交代がきっかけだった。対中政策を担う閣僚、行政院大陸委員会(大陸委)トップ
の主任委員に起用されたのだ。
蔡は当時、政党に属しておらず、国民党の李登輝政権では学者として助言役だったが、対中政策
や国際交渉の豊富な経験が買われ、43歳で自ら政策を執行する立場になった。
中台は李政権下で接触が進んだとはいえ、交流がまだ大きく制限されていた時代。1986年にでき
た民進党は、党綱領のトップに「台湾共和国の建国」を掲げる独立志向の強い政党で、陳水扁総統
が対中関係にどう取り組むかが大きな関心を集めていた。
引き受けるかどうか蔡は少なからず悩んだ。蔡の総統就任に伴い、総統事務室主任に就いたセン
志宏は大陸委に長く勤めていた。蔡の小学校の同級生でもある。蔡に受けるべきか相談され、「向
いていない」と答えた。根回しなど多くの人とやりとりしなければならないポストだからだ。
だが、蔡の自伝によると迷っているうちに人事が発表され、引き受けざるを得なくなってしまっ
た。
蔡は、政権交代したにもかかわらず大陸委の幹部を動かさず、1人で乗り込んだ。9人の主任委員
に仕えたセンは、蔡を「部下の意見をよく聞く上司の一人」と評する。一方、剛毅(ごうき)とも
言えるそのスタイルはときに外部との摩擦も生んだ。
主任委員は閣僚として立法院(国会)に出席し、立法委員から質問を受けなければならないが、
蔡は委員に質問し、逆に追い詰めてしまうこともあった。
そんな場面を見た父親からある日、電話があったという。「立法院で話すときは気をつけなさ
い。鋭すぎてはいけない。相手に逃げ道を残すことも大切だ」。そう助言を受けた、と自伝で明か
している。
「逃げ道を残す」。これは蔡にとって「家訓」となり、以来、常に気をつけているという。そし
てセンの当初の予想は、いい意味で裏切られることになる。=敬称略
(台北=鵜飼啓)