「蓬莱米の祖父」藤根吉春  南郷 成民(岩手台湾同郷会会長)

 岩手と台湾の関係は深い。台湾の発展に貢献した人物が多く、特に後藤新平(台湾総督府民政長官)、新渡戸稲造(「台湾糖業の父」と尊敬される農学者)、三田定則(台北帝国大学医学部長・総長)、伊能嘉矩(『台湾文化志』の著者で人類学者・民俗学者)などはよく知られているかもしれません。

 昨年11月18日に亡くなられた奇美実業創業者の許文龍氏は、台湾の発展に貢献した11人の日本人の胸像や銅像を自ら制作したり支援したりしていますが、この11人の中に後藤新平と新渡戸稲造が入っています。

 実は、台湾総督府農務課技師として台湾の青年たちに農業教育を施し、後に台湾の人々から「蓬莱米の父」「蓬莱米の母」と尊称されるに磯永吉(いそ・えいきち)と末永仁(すえなが・めぐむ)を指導、郷里の盛岡に帰ってからは盛岡農学校(現盛岡農業高校)の校長に就いた藤根吉春(ふじね・よしはる)も、帰国後に台湾の教え子たちが銅像を建ててその貢献を讃えた一人です。

 このほど、岩手台湾同郷会会長で本会会員の南郷成民(なんごう・せいみん)氏が、本年1月1日発行の「岩手台湾懇話会」会報第31号に「『蓬莱米の祖父』藤根吉春─台湾農業の近代化に尽力」と題して寄稿しました。ので、ここに南郷氏の了承の下、全文をご紹介します。

 2018年には、本会理事で群馬県支部長(当時)の山本厚秀氏が、地元の高崎市出身で、台湾の人々から「水道の恩人」と慕われ、記念碑まで建立されていた瀧野平四郎(たきの・へいしろう)の事績を掘り起こし、台湾セミナーでも話していただいたことがありました。

 今回の南郷氏が紹介する藤根吉春は、盛岡市ゆかりの130人を紹介する盛岡市先人記念館でも取り上げられていません。これを機に、藤根吉春を盛岡市先人記念館でも紹介していただきたいものです。

 なお、掲載に当たり、漢数字は算用数字に改めたことをお断りします、藤根吉春のプロフィールは編集部で作成しました。間違いなどがございましたらご一報のほどお願いします。

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藤根吉春(ふじね・よしはる)慶応元年(1865年)4月4日、藤根吉受の長男として岩手県盛岡市に生まれる。1889年に札幌農学校を卒業後、北海道庁に技官として勤務。その後、真駒内繁殖農場長や札幌農学校で畜産や肥料関連の講師、山形県米沢市立米沢東洋中学校の教諭代理を務めた後、1891年、フキと結婚し6人の男児を設ける。1895年11月、台湾総督府に採用され、1897年に技師に昇進。総督府では台南県技官、台南農業試験場長、農事実験場長、台湾農事試験場教授、台湾農事試験場長などを歴任。1908年には農事試験場の機構整備として種芸部、農芸化学部、植物病理部、昆虫部、畜産部、教育部、庶務部の7部を設置して台湾における近代的な農業実務の基礎を築く。1915年、マラリアのため21年間勤めた台湾総督府を辞して日本に帰国。帰国後、1931年まで盛岡農学校校長を務め、1941年3月5日、死去。享年77。從五位、勳五等。著書に『臺灣ノ牧牛』など。台湾近代農業の奇傑、台湾近代農業教育の先駆者と称され、1941年3月20日、台湾農学会が台北市東門町の曹洞宗別院にて偲ぶ会を開催。

—————————————————————————————–「蓬莱米の祖父」藤根吉春─台湾農業の近代化に尽力南郷 成民(岩手台湾同郷会会長)【岩手台湾懇話会会報:2024年1月1日、第31号】

 岩手県台湾同郷会会長の南郷成民氏から、明治から大正にかけて台湾での農業教育に尽力した藤根吉春(盛岡出身)に関する論考が寄せられた。それは、新たに「蓬莱米の祖父」と規定するユニークな論なので、紹介したい。

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 つい最近、台湾の名門大学淡江大学の呉明勇副教授が、わが盛岡出身の藤根吉春を「台湾の近代農業教育の先駆者」と評する論考を発見して、嬉しさは勿論ながら、それ以上に胸のつかえが降りるような思いを覚えたのだった。

 日く「日本統治の50年間に多くの農業専門の優秀な人材が台湾に来て台湾の最重要産業である農業の近代化に尽くしたが、中でも札幌農学校出身者が500人以上と最多で、その中心人物こそ藤根吉春である。藤根は闊達磊落な性格で21年間の在任中、滅私奉公、勇往邁進し台湾近代農業の変革発展に多大な貢献をした。さらに農学校の設立に尽力し、教育者として学生に慈父のごとく接し数多の人材を育て上げた、まさに台湾近代農業教育の先駆者であった。1915年に藤根が日本に帰国するや、その教え子たちは台湾農業への巨大な恩沢に深く感謝して農事試験場内に藤根の銅像を建立した。翌年の除幕式には千人にも上る関係者が集まり、藤根の高徳を称えた。」(淡江大学機構[歴史學系曁研究所]期刊論文より抜粋・翻訳:筆者)

台湾では50年間の日本統治の時代を「日治時代」と呼ぶことが多いが、その日治時代に大きな足跡を残した岩手県出身者としては後藤新平と新渡戸稲造を双璧として、三田定則、伊能嘉矩など正に多士済々であり、その中にあって藤根吉春は一般的には目立たない存在であろうと思う。

 しかしながら、この呉明勇副教授のように、台湾の農業関係者の間では一頭地を抜く評価が与えられていることが盛岡人としては誇らしい限りであり、この事実をもっともつと多くの方に知って頂きたいと切望するものである。

 慶応元年(1865年)盛岡の大沢川原小路に生まれた藤根は、盛岡中学から札幌農学校を卒業、母校の講師などを勤めた後、台湾が日本領となったその年、明治28年(1895年)31歳の時に勇躍渡台。台湾総督府民政局の技手に採用され、翌年技師(高等官)に昇格、台南農事試験場長などを経て、明治37年(1904年)からは台湾総督府農事試験場長という、台湾農業技術者の先頭に立って、あらゆる分野の農業技術の改良発展に余人をもって代えがたい実績を挙げたのだった。また、試験場の機構整備にも実力を発揮し、種芸部、農芸化学部、植物病理部、昆虫部、畜産部、教育部、庶務部の七部体制を確立。さらに農学校を設立したのみならず、農家の子弟を試験場の農事講習生として受け入れて、自ら親しく彼らを指導したことにより台湾の農業関係者の尊敬を一身に集めたのであっ た。

 上述の通り藤根の在台21年間は、遍く全分野にわたって台湾農業発展の基礎を固めた年月ではあったが、私にとって何よりも感慨深いのは「蓬莱米」の誕生に陰ながら大きな力を与えたという一事なのである。

 新領土台湾の発展に身を投ずべく台湾に赴いた俊秀たちを最も悩ませたのは、 実にお米の不味さだったという。台湾のお米の在来種は長粒のインディカ種で、 パサパサしていて独特の香りもあり、ふっくらして甘みのあるジャポニカ種のお米を食べなれた日本人には、なかなか馴染めないものであったようだ。

 後藤新平を民政長官(いわば総理大臣)に抜擢した第4代台湾総督の児玉源太郎は、明治34年(1901年)次のような訓示をし、 ここから台湾の米生産の大改革がス湾 タートしたのだった。

「現今本島に産する所、米をもって第一とす。然れどもその広闊なる水田は気候風土の天恵を有するにも拘らず、水利未だ洽(あま)ねからざるが為収穫する処は、その地積の廣きに似ず、尚ほ甚だ少量にして品質又賤劣なり。是れ米作を以て農家の天賦なりと為せるに似ず、天恵を利用するには拙なるものあるに帰する非ずや。若し水利を通じ耕作を慎まば、その獲る所をして現今所産の三倍ならしめんこと敢て難しとせず。茲に於いて細民共に三餐に飽き、尚ほ剰す所を以て之を海外に輸出するに於いては、 蓋し貿易品の太宗たるを失はざるべし。」

 この訓示によって、農事試験場の設置拡充、耕地拡張、水利整備、品種改良、品質検査、農家への金融利便取り計らいなど、ありとあらゆる米増産、品種改良の手立てが施されていく。品種改良に当たっては、台湾の在来米の改良か、日本からの内地米を改良するかで総督府内で意見が真二つに分かれて激しく対立していたが、最終的に公式には在来米の改良路線に統一されたのだった。しかしその中で藤根は、予算も十分には確保できない状況下で、試験場内の圃場で内地米の改良実験を続けていた。藤根の地道な実験継続の土台の上に、明治43年(1910年) に末永仁(すえなが・めぐむ)が、その2年後には磯永吉(いそ・えいきち)が熱き志を抱いて台湾にやって来る。嘉義農場の技手(現場技術者)に過ぎなかった末永が大正元年(1912年)とその翌年、2年連続で「内地米の改良」をテーマとする論文で「技術員制作品展覧会」で一等賞を獲得したのだが、その審査に当たったのが藤根の部下であった磯永吉なのであった。

 総督府の公式方針とは反対の内地米の改良をテーマとする論文が一等賞を取れたというのが実に驚きなのだが、豪放磊落な藤根が内地米の改良こそが最適であるとの信念に基づき、若き技術者の自由な研究を後押ししていたであろうことが容易に想像できる。磯永吉と末永仁という熱心な若き技術者が、藤根の大きな羽交いに守られて努力に努力を重ねて取り組んだ内地米の品種改良は着実に成果を上げ、各地の農家もそれに挑戦するようになって栽培技術も進歩し、収穫量も増大、とうとう大正14年(1925年)第10代伊澤多喜男総督が内地米試作田を視察、説明に立った磯永吉が内地米の優位性を熱く語った。こうしてついに台湾における米の品種改良は内地米に軍配が上がることとなり、その翌年、伊澤総督によって台湾のジャポニカ種が「蓬莱米」と名付けられたのだった。

 なお、末永が膨大な数の人工交配の末に作り上げた「台中六十五号」という品種のことを「蓬莱米」と呼ぶ、との誤解もあるが、「蓬莱米」とはそのように一品種を指しているのではなく、台湾で栽培に成功した内地米(ジャポニカ種)の総称である。この蓬莱米は児玉源太郎総督の構想の通り、大増産され、食味も良く日本本国への移出も急拡大した。世の中では磯永吉を「蓬莱米の父」、末永仁を「蓬莱米の母」と呼ぶが、私は彼らの研究の土台を作った藤根吉春を「蓬莱米の祖父」と呼びたい。

 そしてわが父南郷龍男(台湾名・李澄雲)は、昭和15年(1940年)に台北から単身東京に出て「中和商行」の屋号で商売を始めた。父の実家は台北市の廸化街で「李義合」の屋号で手広く商売をしていたのだが、その主力商品はお米、まさに「蓬莱米」なのであった。父の興した「中和商行」はいわば「李義合」の東京支店であり、主力商品は勿論「蓬莱米」。その父が、蓬莱米の祖父である藤根吉春の故郷盛岡の地に骨を埋めている。これは決して偶然ではない。

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