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写真:貿易交渉にかかわった1980年代、米通商代表部前で写真に納まる蔡英文氏(中央手前から3
人目)=台湾・総統府提供
台湾が2002年に世界貿易機関(WTO)に加盟した後、初代のWTO大使となった顔慶章は
「1990年ごろ、台湾で国際経済法が分かるのは私と蔡英文(ツァイインウェン)くらいだった」と
話す。
台湾は90年に関税貿易一般協定(GATT)加盟を申請し、92年に加盟作業部会が設置された。
関税水準をどうするのログイン前の続きか、補助金をどうするのか。多角的な貿易体制への加盟
は、さまざまな産業に大きな影響を与える。準備作業は膨大なものだった。
「申請時に提出した30ページの覚書に対し、加盟国から約470の質問が寄せられた」。国際貿易
局の科長として加盟交渉に携わった徐純芳は当時の驚きを語る。一つ一つ回答が必要で、法的観点
も不可欠。そこで同局が頼ったのが、以前に米国との知的財産権交渉で顧問を務めた蔡だ。蔡を中
心に法律顧問団を組むように頼んだのだ。
部局横断会議には40〜50人が参加していたが、当局全体では1千人以上が関わっていた。蔡は法
律顧問トップとして、全体情勢に目を配る立場にあった。
交渉入り後も各国から問題が次々に提起された。台湾はこうした交渉の経験が乏しく、交渉の場
では直接回答せず、持ち帰って検討する作戦を採った。
ジュネーブでの交渉では、代表団は一日を終えるとホテルに戻ってそれぞれ担当の回答を作成。
蔡はすべての情報が出そろってから、翌日の発言内容の取りまとめにかかったという。蔡自身が直
接交渉するわけではなかったが、「交渉で蔡が果たした役割は非常に重要だった」と徐は話す。
交渉に携わった経験は蔡に大きな影響を与えた。喜怒哀楽を表に出さない性格も、交渉時に顔色
を読み取られないようにするため身についた、と語っている。
自伝には、蔡のその後のスタイルを象徴するこんなことも書かれている。
「交渉で学んだことは、絶対に圧力のもとで決定を急いではいけないということ。圧力下での決定
はたいてい間違っているし、圧力で望む結果が得られると思えば、相手は圧力をかけ続けるだろ
う」=敬称略
(台北=鵜飼啓)