本紙3月2日号で、2月27日にテレビ熊本が「特集 台湾近代教育の先駆者 六氏先生 平井数馬を偲んで」として放映したことをお伝えしました。
これは、去る2月1日、芝山巌事件で殉難した熊本県出身の「平井数馬歿後130年祭」の慰霊祭と講演会が平井数馬顕彰会(白濱裕会長)により熊本県護国神社で開かれた模様を放映したものでした。
なんと、テレビ熊本はその翌日の2月28日に、今度は明治から大正時代にかけて台湾で教育に当たり、「大甲(たいこう)の聖人」といまもなお台湾の人々から敬愛されている、熊本県益城町(ましきまち)出身の志賀哲太郎(しが・てつたろう)の事績を放映していました。
これは、昨年11月に「志賀哲太郎顕彰会」(宮本睦士会長)が行った志賀哲太郎没後100年を記念してその足跡をたどる歴史探訪ツアーの模様を放映したものです。
ちなみに、志賀哲太郎は1865年(慶応元年)8月28日、熊本県上益城郡津森村に生まれ、九州日日新聞社の記者となった後に英語や法律を学び、台湾が日本の統治下に入った直後の1896年(明治29年)12月に渡台。
台湾では、現在の台中市大甲区にある、台湾人子弟を育てる大甲公学校の雇い教員(代用教員)となって基礎教育に打ち込んだそうです。
その甲斐あって、大甲公学校の就学率は台湾の平均が50%程度に対し70%という高さとなり、台湾興隆の基となる幾多の人材を育成しました。
テレビ熊本はその後の志賀について「しかし、やがて教え子たちが民族運動に目覚め、統治する側の学校との板挟みとなった志賀は教員の身分を解かれてしまいます。
そして、1924年12月、生きがいを失った志賀は自ら命を絶ちました。
59歳でした」と伝えています。
1924年(大正13年)12月29日、その身に9キロもの石を括り付けた覚悟の入水自決でした。
志賀哲太郎顕彰会は、志賀の生誕150年記念して2015年9月に設立され、台中市大甲区を何度も訪問し、研修会や講演会を開催して志賀哲太郎の事績を顕彰する活動を展開。
2020年2月には、李登輝元総統なども協賛し、安倍晋三総理が揮毫した志賀哲太郎先生顕彰碑を建立しています。
2017年12月には本会の李久惟・理事、2022年10月には本会の渡辺利夫会長も講演しています。
志賀哲太郎顕彰会が設立された10年前は、地元でもほとんどその名を知られていなかった志賀哲太郎ですが、顕彰会の地道な努力が実を結び、志賀哲太郎生誕130年、志賀哲太郎顕彰会も設立10年という節目の年であるこのときに当たって地元のテレビ局が志賀の事績を紹介したことは大きな意義があります。
10分弱の放映ですが見応えのある内容です。
なお、志賀哲太郎顕彰会の歩みなどについては同会のホームページをご覧ください。
◆〈台湾大甲の聖人〉志賀哲太郎と教え子たちの絆
【テレビ熊本:2025年2月28日19:00】9分53秒
https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250228-00000010
◆志賀哲太郎顕彰会
https://shigatetsutarou.cloud-line.com/
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