今年は1895年(明治29年)1月1日に起こった台湾の芝山巌(しざんがん)事件から130年という節目の年を迎えたことから、去る2月1日、同事件で殉難した熊本県出身の「平井数馬歿後130年祭」の慰霊祭と講演会が平井数馬顕彰会(白濱裕会長)により熊本県護国神社で開かれました。
2月27日、その模様を地元のテレビ熊本が「特集 台湾近代教育の先駆者 六氏先生 平井数馬を偲んで」として放映しました。
◆特集 台湾近代教育の先駆者 六氏先生 平井数馬を偲んで
【テレビ熊本(TKU):2025年2月27日 13分02秒】
https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250227-00000011
李登輝元総統は、かつて台湾を訪れた森喜朗・元総理を芝山巌に案内したことがありました。
また、曾文恵夫人を伴って2009年(平成21年)9月に来日されたときには、熊本市内の小峰墓地にある平井数馬のお墓と「芝山巌殉国之士平井数馬先生之碑」をお参りしています。
なお、番組の中で、白濱裕・会長は「『六氏先生』は楽譜が今まで(日本で)出版された本には載っていないんです。
台湾の唱歌集の中に見つかったということで、ひょっとしたら、戦後、日本で初めて歌われたのではないかと」と話しています。
この「六士先生」の歌は、作詞・加部巌夫、作曲・高橋二三四によります。
芝山巌事件から100年の1995年6月1日、士林国小校友会有志によって芝山巌に再建されたお墓の前で、日台双方の教育関係者が墓前祭を催し「六士先生」を歌った記録はあるのですが、白濱会長が指摘するように、日本国内で歌われたのは初めてという快挙だったかもしれません。
その意味でも、番組は貴重な記録となっています。
下記に、平井数馬の略歴と芝山巌事件についての解説を掲載します。
・平井数馬(ひらい・かずま)
明治11年(1878年)7月26日、平井新平の四男として熊本県益城郡松橋町(現在の宇城市)に生まれる。
手取小学校高等科を終えて中学済々黌(せいせいこう)に入学。
明治28年1月、中国語の通訳を志望して九州学院支那語科に入学して6月に修了。
通訳を志願するも年少のため不可。
同年8月、台湾総督府の学務部員として舎監を務める一方、高評を博した『軍隊憲兵用台湾語』を著す。
お墓と「芝山巌殉国之士平井数馬先生之碑」は熊本市内の小峰墓地にある。
享年17。
・芝山巌事件
明治28年(1895年)に日本が日清戦争に勝利し、清国から割譲された台湾を日本が統治しはじめると同時に、台湾の近代教育も始まります。
音楽教育の先駆者でもあった文部省学務部長心得の伊澤修二(いさわ・しゅうじ)は、日本全国から優秀な志ある教師を募集し、台北郊外の士林に「芝山巌学堂」という最初の学校を開き、教師たちは身魂をなげうって台湾人子弟の教育に当たっていました。
統治間もなくの台湾はまだ政情が不安で、日本人を敵視する匪賊も少なくなく、周辺住民は教師たちに再三退避を勧めましたが「身に寸鉄を帯びずして群中に入らねば、教育の仕事はできない」として学堂を離れませんでした。
翌明治29年(1896年)1月1日、6人の教師が台湾総督府における新年拝賀式に出席するため芝山巌を下山しようとしたとき、100人ほどの匪賊(ひぞく)に取り囲まれてしまいました。
6人は教育者として諄々と道理を説きますが、匪賊たちは槍などで襲いかかり、衆寡敵せず全員が惨殺されてしまいます。
これが「芝山巌事件」です。
この非命に斃れた6人の教師は、当時、17歳から37歳で、楫取道明(かとり・みちあき)、関口長太郎(せきぐち・ちょうたろう)、桂金太郎(かつら・きんたろう)、中島長吉(なかじま・ちょうきち)、井原順之助(いはら・じゅんのすけ)、平井数馬(ひらい・かずま)です。
後に「六士先生」と尊称され、芝山巌学堂を開いた伊澤修二自身の作詩・作曲になる「六士先生招魂歌」という歌や、「六士先生の歌」(作歌:加部巌夫、作曲:高橋二三四)という歌も作られました。
明治31年秋、靖國神社に合祀されています。
なお、六氏先生は六士先生とも記されます。
芝山巌事件から100年の1995年(平成7年)1月1日、士林国小校友会有志によって芝山巌に再建されたお墓の棹石(さおいし)には「六氏先生之墓」と彫られています。
ただ、芝山巌学堂を開いた伊澤修二自身の作詩・作曲になる「六士先生招魂歌」や「六士先生」(作歌:加部巌夫、作曲:高橋二三四)という歌もあることから、本誌では「六士先生」と表記していることをお断りします。
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