最後の総督と秘書官の終戦秘話  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

最後の総督と秘書官の終戦秘話  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

【台湾日本人物語 統治時代の真実(53):2022年3月30日】https://www.sankei.com/article/20220330-YPPON5WWU5OGVHSAAPYHWY33IY/?678995&KAKINMODAL=1

 最後の台湾総督(第19代)は、陸軍大将、安藤利吉(りきち)である。いったんは予備役へ編入された安藤が昭和19年12月、第10方面軍司令官との兼務で台湾総督に就いたとき、戦局は決定的に悪化していた。

 もしも安藤が台湾に来なければ、ドラマチックな晩年を迎えることはなかったかもしれない。

 翌20年3月、硫黄島が落ち、6月には沖縄戦が終結する。備えていた米軍の台湾上陸はなかったものの、5月末の台北大空襲などでは大きな被害が出た。そして、終戦を迎える。

 翌21年4月、安藤は、台湾で、米軍機搭乗員14人が射殺された事件の戦犯容疑で逮捕され、3日後に中国・上海へ移送される。安藤は「責任はすべて私にある」と証言し、4月19日、隠し持っていた青酸カリをあおって自殺した。遺書には「参謀長以下には責任はない…自分は敗戦の責任を負って自決する」などと書かれていたという。

 その前、「台湾独立派」一部勢力から日本に協力を求める動きがあった。中国・国民党が来る前に台湾人による政権樹立に力を貸してほしいというのである。

 インドネシアでは再支配を狙うオランダとの戦闘に旧日本軍人が協力し、こちらは独立を勝ち取る。だが、安藤は「独立派」の申し出を断った。ポツダム宣言に反する行為に与(くみ)すれば、外地約600万邦人の引き揚げにどんな影響が出るか分からない。安藤はそう判断した、とされている。

◆中国機に偽装して

 斎藤茂は安藤の秘書官(兼総督官房人事課長)だった。総督府ナンバー2の総務長官、成田一郎に随行して20年9月20日、ポツダム宣言の完全履行と台湾の円滑な引き渡しなどについて日本政府と協議するため、飛行機で上京する。ところが、協議を終えて台湾へ戻ろうとしたところを、連合国軍総司令部(GHQ)からストップをかけられてしまう。

 何としても台湾へ戻らねばならない。国民党側からは、10月に接収委員が台湾へやってくることを通告されている。行政(総督府)として、やるべき作業は山積しているだろう。

 このときの緊迫したやりとりや動きを記した斎藤のメモが残されている。

 9月21日以降、一行の帰台用や台湾銀行券輸送用の飛行機運航を申請したが、いずれも拒否された。異変を感じ、GHQに問い合わせたところ、中国政府から「中国政府の要求する人物以外は渡台させない」よう、GHQへ申し入れがあったことが判明する。

 28日に安藤総督宛てに、29日には外務大臣から南京の中国大使館宛てに、帰台許可への交渉を願う電報を打つも、返事は「実現は極めて困難な見込み」。10月になっても事態は一向に好転する気配はない。同10日には日台路線を飛んでいた大日本航空に全面飛行禁止命令が出てしまった。

 長官一行は代替案として11月以降、米軍機、次いで中国機に便乗しての帰台を模索する。同月14日、斎藤から、台湾の総督府文書課長宛ての「総務長官帰台用飛行機ノ件」とする電話通信の内容が興味深い。

 使用する飛行機は「重爆九七─二」(日本陸軍の九七式重爆機のこと)。そこへ「同及翼ニ中国標識ヲ付ス」。つまり、日本の軍用機を中国機にカムフラージュして台湾まで飛ぼうというアイデアである。「帰途用航空燃料ハ携行ノコト」「機体ノ整備ハ搭乗員ニテナスコト」とあった。

 だが、直前になって不許可の通知。相手側から、はかばかしい返事は得られず、堂々巡りが続いた。10月25日には、国民党政権の台湾省行政長官、陳儀一行が台湾入りしている。

 あきらめることができない斎藤は新たな手段を講ずる。船員手帳を入手し、日本から台湾を経由してオーストラリアに向かう船に潜り込もうというのである。密航に近い。だが、これも実現には至らなかった。乗り込んだ船が出航直前になって「台湾を経由しない」ことになったからである。万策は尽きた。

 21年2月、斎藤は帰台できないまま外務省管理局総務部南方課長に転ずる。現地(台湾)の事情に通じた人材を東京の中央政府が求めていたからだ。このときの斎藤の苦しい心情を思いやった安藤の前の総督である長谷川清や終戦時の首相、鈴木貫太郎の妻、タカ(たか)からの手紙が斎藤家に残されている。

 やっと家族と再会できたのは妻子6人の引き揚げが実現した同年4月。公務を優先する斎藤はこの間、台湾の家族との連絡をほとんど取らなかった。斎藤の次男で台湾協会理事長を務めた斎藤毅(つよし)(84)は終戦当時、国民(小)学校2年生。「かろうじて生きていることだけは互いに分かっていました。4月14日夜、東京・新橋駅で、やっと再会を果たせたときは涙で言葉になりませんでしたね」

◆敗戦悲しむ本島人

 日本の台湾統治は51年で終わった。だが「日台」それぞれの人たちに刻まれた思いは無くならない。

 斎藤が外務省時代、終戦前後の状況をまとめた『台湾ノ現況』と題した一文が残されている。《…終戦ノ御(おん)放送ヲ拝シタル一般島民、内地(日本)人タルト本島(台湾)人高砂族(先住民)ヲ問ハズ一時呆然(ぼうぜん)トシテ為(な)ス所ヲ知ラザル…》。さらに《本島人青年ハ概シテ敗戦ノ悲嘆ニ暮レ…支那統治時代ノ無警察状態ヲ想起シテ不安ニ戦(おのの)キ高砂族ノ如(ごと)キハ純真ニ敗戦ヲ嘆クト共ニ…支那時代ノ圧政ヲ再現セラルヲ憂(うれ)ヘタリ》と。

 「湾生(わんせい)(台湾生まれの日本人)」である毅は戦後、台湾への渡航が認められるようになっても、ずっと行かなかった。「生まれ故郷へ帰るのになぜ『外国人ビザ』が必要なのか(現在は不要)。私には納得できなかった。でも台湾への思いは父の方がはるかに深い。終生、縁があった方々への懐かしみと感謝の念を持ち続けていました」=敬称略(編集委員 喜多由浩)=おわり

『台湾日本人物語』は産経新聞出版から書籍化の予定です。ご期待ください。

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【プロフィル】安藤利吉(あんどう・りきち)陸軍大将。明治17(1884)年、宮城県出身。陸士16期、陸大26期。南支那方面軍司令官、台湾軍司令官、第10方面軍(台湾)司令官を経て、台湾総督を兼務。最後の総督(19代)として終戦を迎える。昭和21年4月、戦犯容疑で勾留中の中国・上海で服毒自殺、享年62。

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【プロフィル】斎藤茂(さいとう・しげる)明治37(1904)年台湾出身。旧制三高(京都)から東京帝国大学法学部法律学科卒。昭和6年、帰台し、台湾総督府文教局勤務。新竹州警務課長、総督府物資動員課長、台北州警察部長。総督官房秘書官を務め、終戦処理業務にあたった。戦後、岩手県副知事。昭和55年、76歳で死去。

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