屏東平原を潤した日本人技師 鳥居信平  古川 勝三(台湾研究家)

屏東平原を潤した日本人技師 鳥居信平  古川 勝三(台湾研究家)

【nippon.com「台湾を変えた日本人シリーズ」: 2020年7月18日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00884/

 台湾の南部にある屏東県と日本は深いつながりを持っている。日本統治時代は多くの日本人が生活した。この時代、屏東の姿を大きく変えた人物がいた。サトウキビの農地開墾のため、台湾製糖に招かれ、屏東の枯れた大地を、伏流水を利用した地下ダムによって潤した鳥居信平(とりい・のぶへい)だ。

◆製糖で発展した屏東

 台湾南西部の港湾都市・高雄市の南東に、屏風(びょうぶ)のように横たわる半屏山がある。この山の東に屏東市が広がる。かつてこの街は「阿猴」といわれ、鄭成功が台湾を支配していた時代までさかのぼる古い歴史を持っている。この屏東平原の農業を大きく変え、「農業県」と呼ばれる今日の姿に作り変えたのが、日本統治時代、農業改革のために、台湾総督府から現地に派遣された日本人技師、鳥居信平だった。

 屏東県の現在の人口は約80万人。都市部を離れると、田園風景が広がる街である。日本統治時代の大正期には「台湾製糖株式会社」の本社と「陸軍第八飛行連隊」の駐屯地があったため、多くの日本人が住み着き、にぎわっていた。サトウキビを運搬した台湾製糖時代に走っていた軽便鉄道のレールが現在でもあちこちで残っており、かつての繁栄をしのぶことができる。

 台湾を領有した頃の日本は、砂糖消費量の98%を輸入に頼っていた。第4代台湾総督の児玉源太郎と民政長官の後藤新平は、台湾政策の中心を産業振興に置き、その一環として糖業奨励を推進することにして、台湾に近代式の製糖会社を設立することを目指した。

 後藤から多額の補助金を出すことを条件に進出の依頼を受けた三井物産は、1900(明治33)年12月に株主数95人、資本金100万円で「台湾製糖」を設立した。ところが、原材料の台湾産サトウキビの供給が追いつかなくなり、台湾製糖では総督府から払い下げてもらった屏東・林辺溪の周囲の広大な土地を開墾し、サトウキビ栽培の自社農場を造ることを考えた。

 しかし、開墾予定地は小石混じりの固い土壌で、耕作可能な状態ではなかった。さらに大武山の麓には急勾配の林辺渓が流れていたが、雨期には半年で2500ミリメートルもの雨が降って田畑が水に漬かるかと思えば、乾期には一滴の雨も降らない干ばつが襲い、飲料水の入手にも苦労する土地であった。

◆水利技師として台湾へ

 台湾製糖は、サトウキビ増産のために土壌の改良やかんがい、排水システムの構築ができる水利技師を必要としていた。当時専務だった山本悌二郎は、親交のあった東京帝大農科大の教授である上野英三郎博士に相談を持ちかけ、教え子であった鳥居信平を推薦されたのである。

 鳥居は1883(明治16)年1月4日、静岡県周智郡上山梨村(現在の袋井市)の農家の三男として生まれた。県立静岡中学校を卒業すると、金沢の第四高等学校に入学、卒業後は東京帝大農科大学に入学し、ここで上野教授から農業土木について学んだ。卒業後は農務省農務局に就職、清国の山西省で農林学堂の教授を務め、帰国後は徳島県の技師となっていた。上野博士から話が持ち込まれたのは結婚して間もない時で、鳥居は周囲の反対を振り切って新妻のまさと徳島の技術者を伴って1914(大正3)年に渡台した。31歳の時である。

 台湾製糖農事部水利課長に迎えられた鳥居の任務は、屏東平原の東端の荒れ地約2200ヘクタールを開拓して、サトウキビ農場にすることであった。現地を案内した社員が「乾期は、地下を2メートル掘っても一滴の水すら出てきません。3月になると干ばつが襲い、飲み水にも苦労します。ところが5月から雨期が始まると、今度は洪水が田畑を襲い水に漬かってしまいます」と説明した。

 鳥居はしゃがみ込むと、土壌を調べた。ため息をつきながら「これほどの荒蕪地(こうぶち)は、内地でも清国でも見たことがない…」とつぶやいた。コンクリート状になった地層に、大小無数の石がぎっしりと埋まっていたからである。鳥居は自分の知識や経験で対応できるか、不安な気持ちを抱えながら現場を後にした。

◆命がけの過酷な調査

 鳥居は劣悪な環境の中で毎日、かんがい用の水源を探しに調査へ出かけた。採用した先住民の青年を先頭に重いリュックを背負い、3000メートル級の山に向かい林辺渓をさかのぼる日々が続いた。「ゲートルをしっかり巻け、氷砂糖を忘れるな、キニーネを飲め」と出発前に必ず鳥居は部下たちに念を押した。毒を持つ蛇が這い回り、風土病が猛威を振るっている地域での調査である。その上に、日中には気温が35度にもなるため、体力の消耗が激しかった。命の綱は、キニーネと氷砂糖だけであった。

 忍耐強い調査を2年余り続けた結果、林辺渓の集水区域は、年間降水量が多いにもかかわらず、1キロメートルあたり6メートルの落差があり勾配がきつく、土壌成分の関係で保水力が弱いことが分かった。勾配落差の甚だしい地域に地上ダムを建設することは工事費の面からも土砂の堆積量からも得策ではなかった。効率良く水源を確保するには、どうしたらよいのか、鳥居はデータを眺めてはため息をついた。

 ある日、調査データを見ていた鳥居は、乾期に林辺渓が干上がっても川床の下を伏流水が途切れずに流れ、屏東平野の海抜15メートルの地点で湧き水となって出ていることに気付いた。鳥居は興奮して叫んだ。「そうだ、この伏流水を利用すればきっとうまくいく」

 鳥居のふるさと袋井には北から南へ太田川が流れ、昔から湧き水の豊かな水郷として知られている。伏流水を水源にすることを思いつくと、地下ダムの設置場所の調査を始めた。地下ダムは見えないところに構築するため、場所の選定が難しいのである。調査の結果、適地を探し出した鳥居は地下ダム工事基本計画書の作成に取り掛かった。翌年の1919(大正8)年に「萬隆農場土地改良計画書」を書き上げ、台湾総督府に提出した。この年は八田與一技師による「嘉南大?新設事業」が国会に提出され、可決された年でもあった。当時、日本では地下ダムは造られたことはなかった。

 地下ダムによるかんがい計画は、実に画期的な環境に優しい工法であった。第一に土木工事の規模が小さく工事費が安く、工期も短い。さらに、地下水は途中の土砂を通る過程でろ過されるので、大量の澄んだ水ができそのまま飲料水に使える。その上、地下に埋められているから蒸発もなく、底部に土砂がたまることもなく、維持管理にも手間が掛からない。動力もいらず、環境破壊もない。住民たちの狩り場や漁場としている清流をそのまま保つことができるので、生態系にも影響が少ない。まさに良いことずくめのエコなダムなのである。欠点と言えば、止水堰の構築場所を決めにくいことと貯水量が地上ダムほど多くないことくらいである。

 鳥居は基本計画書を提出すると時を同じくしてパイワン族やルカイ族の村落を回って、頭目に計画を説いて回った。時には勧められるままに頭目の家で酒も飲んだ。親しくなった頭目とは義兄弟の契りまで結んだ。彼らの伝統文化の素晴らしさや、義理人情に厚く、勇敢で純真な人々であることに気付いていた。先住民の言葉も身に付けるなど、現地の人々と信頼関係を築くことに熱心であった。

 1920(大正9)年に入ると台湾製糖の本社が高雄から屏東に移転し、東京支社も麹町に設置された。さらに荒蕪地2000ヘクタールの開墾も正式に決定した。

◆博覧会で金賞

 1921(大正10)年6月15日には、高雄州の知事や警察関係者、先住民の頭目らを招き、盛大に起工式を行った。乾期に干上がった川床を深さ7.27メートルまで掘り起こし、堅牢な地盤の上に高さ2.12メートル、幅3.94メートル、長さ327メートルのL字型の止水堰を埋設する工事になった。伏流水を大量に集めるためのU字型集水暗渠を上流の川底を開削し445メートル設置する工事も行った。さらに、止水堰で集められた大量の伏流水は、川岸に造られた大きなマンホール状の貯水槽に貯められ、ここから半円形の土管を使って、総延長57キロメートルの支線、分線を通って128キロ平方メートルの扇状地状の農地に農業用水が行き渡るようにした。止水堰と貯水槽の途中には伏流水量を視認できるように点検用マンホールも設置した。

 1922(大正11)年6月には、各水路への通水テストが実施され成功を収めた。また、東京で開催された「平和記念東京博覧会」において台湾製糖の土地改良事業が認められ、金杯を受賞した。

 人海戦術の結果、工事、開墾に関わった延べ人数は、14万人にも達した。この工事には、信頼関係を構築していた先住民・パイワン族の協力が大きかった。パイワン族の若者たちは、山から下りてきて、5日働いては、2日山に戻るという日程で働いた。工事が終わる頃になると、先住民の生活は驚くほど変わった。かんがい用水が用水路に行き渡るようになると、水路に沿った農地に移動して耕作をする者が現れた。また収入の多い米作りを始める者もいた。工事の賃金が貨幣で支払われたため、従来の物々交換ではなく貨幣が使われるようになった。獲物が捕れなくても、豚肉や野菜を購入できるし、釘、針、農具、ナイフ、布などが人気の商品となった。郵便貯金に励む住人も現れて、近代的な経済観念が広まっていった。

◆地下ダムの水でサトウキビ農場

 1923(大正12)年5月には、全ての工事が完了し竣工(しゅんこう)式が行われた。澄み切った大量のかんがい用水が開墾された農場と周辺農地を潤す様子に人々は歓声を上げた。地下ダムは台湾製糖の山本悌二郎社長の雅号「二峰」から「二峰[土川]」と命名され、農地は「萬隆農場」と名付けられた。総工事費用は約65万1500円であった。その後、新設された台湾製糖屏東工場では、萬隆農場で育てたサトウキビが原料として利用した。

 さらに、鳥居は力力溪の伏流水に目を付け翌年の5月には導水路を完成させた。1926(大正5)年にはかんがい用水路を開墾地まで導入し新たに1万7000ヘクタールの農地を生み出し、「大響営農場」を開設した。その功績で1930(昭和5)年には、台湾製糖の取締役に就任した。翌年には常務兼研究部長に就任するも、眼病を患い55歳で会社を退職し、30年ぶりに帰国して、東京支社の特別参与に就任した。

 戦争が始まり、昭和20年には東京の自宅が空襲によって全焼、戦後は「農地開発営団」で野辺山開拓村の開設に携わっている途中に脳溢血で倒れ、翌日に死亡した。享年63歳であった。

 鳥居が造った地下ダム「二峰[土川]」は、100年近くたった今日でも、一日当たり雨期なら約12万トン、乾期でも約3万トンの農業用水を供給し続け、屏東平原を潤し地域住民の生活を支えている。屏東の住民は「二峰?は南部台湾の宝」だと語り、鳥居への感謝の気持ちを忘れることはない。

参考文献・平野久美子書『水の奇跡を呼んだ男』(産経新聞社刊、2009年刊)・松井嘉和監修『台湾と日本人』(錦正社、2018年刊)

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