あの独特のポーズをとる八田與一銅像の行方を詳しく記し、新たに発見した八田の手紙から、米国が最初に開発したとされているセミハイドロリック工法は米国よりも早く八田が独創していたことを明らかにしている。
また、外代樹夫人が8人の子供を残して入水死した原因についても、古川氏なりの見解を明らかにしている。味読されたい。
◆不毛の大地を緑野に変えた八田與一(1) 古川 勝三(台湾研究家) 【nippon.com「台湾を変えた日本人シリーズ」:2018年7月28日】 https://www.nippon.com/ja/column/g00557/
◆不毛の大地を緑野に変えた八田與一(2) 古川 勝三(台湾研究家) 【nippon.com「台湾を変えた日本人シリーズ」:2018年9月23日】 https://www.nippon.com/ja/column/g00570/
不毛の大地を緑野に変えた八田與一(3) 古川 勝三(台湾研究家)【nippon.com「台湾を変えた日本人シリーズ」:2018年11月18日】https://www.nippon.com/ja/column/g00614/
◆戦後37年間、嘉南の人々に守られた八田與一の銅像
1930年5月、嘉南大圳(かなんたいしゅう)の心臓部である烏山頭ダムが完成し、15万ヘクタールの大地に「神の与えし水」が満たされ、世紀の大事業が終わった。技師の八田與一は再び台湾総督府に復帰することになった。烏山頭の従業員も新たな職場に異動し、再び集まることはないはずである。苦楽を共にしてきた10年間の歳月がいとおしく、別れづらかった。
「何か記念になるものを残しておきたい」。従業員の中から自然発生的に声が上がった。「そうだ、八田所長の銅像をつくって、起点に置こう」
固辞していた八田は「台の上から見下ろしているような像にだけはしないでほしい」という条件を付けて同意した。
発起人総代は機械課長の蔵成信一がなった。従業員からの寄付と校友会からの贈呈分を合わせると、1779円にもなった。現在の価値にすると800万円ほどであろうか。銅像の制作は東洋のロダンと呼ばれた彫刻家・朝倉文夫に師事した都賀田勇馬に1200円で依頼した。起点に腰を下ろしいつも頭髪を触りながら思索する姿の銅像が、31年7月8日、烏山頭に運び込まれた。
時は流れ、日本の戦局が悪化すると、金属類供出令による銅像や釣り鐘の供出が行われた。八田の銅像も例外ではなく、烏山頭から姿を消した。
45年8月15日、戦争はポツダム宣言の受諾により終わり、台湾は放棄されることになった。八田の銅像は供出後、行方不明のままだった。ところが偶然にも台南市内の闇市で、かつて八田の部下だった坂井茂の息子が見つけて父親に伝えた。坂井は、すぐに嘉南農田水利協会に連絡した。銅像の無事を喜んだ水利協会は、直ちに買い取り、番子田(現在の台南市隆田)にある協会倉庫に運び込んだ。日本人の銅像や神社が撤去される時代である。銅像の存在が発覚するのを恐れた水利協会は、夜陰に乗じて烏山頭に運び、かつての八田家のテラスに置いた。ところが、台南神社の神馬の尻尾が切り取られ売られるという事件が起きた。心配した水利協会は、ダムの管理事務所の地下室に銅像をしまい込み、以後30年余り封印した。
75年、水利協会は、銅像を再設置するための許可願を政府に提出したが、日本との国交断絶という煮え湯を飲まされたことが影響したのか、「不許可」だった。その3年後、再度許可願を提出したが、無回答だった。黙認と考えた水利協会は万一、銅像が壊されても再度作れるように型を作り、今度はそれを地下室に隠した。八田の銅像は81年に台座を付けて元の場所に再び設置された。烏山頭から姿を消して37年が経過していた。嘉南の人々は、苦労して八田の銅像を守り抜いたのである。
◆友人への手紙から分かった八田與一の先見性
八田が設計した烏山頭ダムはセミハイドロリックと呼ばれるもので、粘土を含む砂利を送水管で運び、積み上げてダムを造る工法だ。この工法には「セミ」が付いているが、土砂の運搬に水を使わず列車を使って運んでいるからで、東洋では唯一、その規模が世界最大の半射水式アースダムである。八田がこの工法を提案した理由は2つある。一つは日本同様に地震の多い台湾で1273メートルもの長大なダムをコンクリートで造りたくなかった。さらにダムを構築する烏山頭周辺の地質が粘土質で、近くの曽文渓には築堤に必要な砂利が大量にあったからだ。実際、烏山頭ダムにはわずか0.5%のコンクリートしか使われていない。
八田の親友に1年後輩の石井頴一郎がいた。石井は1885年、神奈川県横須賀市に生まれ、1911年の大学卒業後は横浜市水道局を皮切りに、水力発電などを研究、特にダム工事を研究した。38年10月、日本電力取締役を辞任し、台湾電力顧問に就任。大甲渓、その他のダム、発電所について工法指導をした技師である。八田とは生涯の友で、頻繁に手紙のやりとりをした。その中にセミハイドロリックに関する貴重な八田からの手紙が見つかったので紹介する。
「米国でシルラーという技師が射水式ダムを考案した。ダム付近の高地にある土砂に射水を吹き付けて山地を崩かいし、桶(おけ)でその土汁を運搬して、ダムを造るのであるが、常に条件が良いというわけにはいかないから『カラベラスダム』の如(ごと)きは、礫(れき)が不足のため工事中決壊を起こした。烏山頭は周囲の山が全部粘土だから、この土だけでダムを造るのは危険であると思った。そこで曽文渓から適当な砂礫(されき)を汽車で運搬してきて、ダムの両側に捨て、それに射水して粒度を大小に分解しダムを築造する案を考え出した。その頃はまだ米国に半射水式ダムの現れていない時代だったから奇抜な方法と思われたのも無理はない。自分はこの工法がベストと信じたから、それを実行しようとした。
ところが当時の○○技監(注:文字が不明瞭のため○○とした)や山形課長はどうしても許してくれない。そのような射水ダムは、ないというのである。だから自分が発明したのだと言っても、外国にないものは、相成らぬと言って、大反対だった。しかし、自分はその工法以外に安全な案はないと信じていたから、それなら自分の意見を学会に発表して賛否を問うことにしてはどうかと申し出たところが、かかる役所の秘密を発表することはもっての外だと言って、これさえ許してくれない。かといってみすみす危険だと思う工法を遂行することができるものではない。
かような有様でもめていたが、大正9年米国でホルムスという技師が半射水式を発明し、一方純射水式のカラベラスが工事中潰れたので、漸く自分の意見が認められ、半射水式工法によってあのダムが出来たのであった。同時に15万町(1町=約1ヘクタール)歩の耕地が、甘藷と水稲と三年輪作に成功したのも、自分の創案が認められた結果である。こんな訳で半射水式は米国に先鞭(せんべん)をつけられたが、自分の創案の方がはやかったことをひそかに誇りにしている」
この手紙は、八田がセミハイドロリック工法と三年輪作給水法(3種類の作物を輪作し、1年ごとに給水地域を変える方法)を創案していたことが伺える貴重な資料である。もしこの時、八田の提案を受け入れて実施していたら、烏山頭ダムはセミハイドロリック工法による世界初の世界最大のダムとして記憶されたに違いない。役人の「前例がない」思考は、昔も今も変わりがない。
◆墓碑はダムを見下ろす場所に設置
1942年5月8日、八田が乗った大洋丸は、米国潜水艦の攻撃で撃沈され、1000人余りの優秀な技術者と共に東シナ海に沈んだ。享年56歳だった。一方、外代樹夫人は、夫の死後も台湾に残り、終戦時は、浩子、玲子、成子と共に疎開先の烏山頭で迎えていた。学徒動員に出ていた次男の泰雄が8月31日に帰ってきた翌9月1日未明、「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟姉妹仲良く暮らしてください」と遺書をしたため、烏山頭ダムの放水プールに身を投げた。45歳の若さだった。
戦後、外代樹夫人の死は「夫を慕うあまりの死」として語られ日本人女性の美徳として広まっていた。大宅壮一ノンフィクション賞作家の鈴木明氏でさえも78年に出版された「続・誰も書かなかった台湾」の中で「電報を手にしたとき『みやと慕いてわれはゆくなり』 という遺書を残して嘉南大圳に身を投げて死んだ」と間違った記述をしている。 この間違った遺書の与えた影響は小さくない。外代樹夫人の死は、殉死でなく精神的なダメージを受けた結果の死と考えるのが妥当と筆者は考えている。そうでなければ、利発な外代樹夫人が8人もの子どもを残して死ねるわけがない。
終戦当時、烏山頭出張所の所長だった赤堀信一は、六女の成子から外代樹夫人の不明を知らされ、真っ先に現場に駆け付けた。八田夫妻とは古くから交流があった。赤堀は八田夫妻が烏山頭の地で永眠することを願い、水利協会に相談した。夫妻が「台湾に永住する」ことを聞いていた水利協会の職員は、赤堀の申し出に即断し、ダムを見下ろす場所に墓碑を置くことに同意した。
大理石なら幾らでもある台湾で、日本式の墓石にするため御影石を探した。高雄で福建産の墓石を見つけ、銅像があった場所の後ろに建立した。46年12月15日のことである。墓碑には昭和21年でなく中華民国35年と彫られた。赤堀の指示だった。「中華民国暦にしておけば、将来この墓碑が台湾人によって造られたと言われるようになるだろうが、それで良い。八田夫妻もそれを喜ぶはずである」。やがて歴史はそれを証明することになる。