「アジア・オープン・フォーラム」と日台関係(上) 早川 友久

「アジア・オープン・フォーラム」と日台関係(上) 早川 友久

 李登輝元総統の秘書をつとめていた早川友久氏は、このほど日本台湾交流協会台北事務所の専門調査員として、日本台湾交流協会が毎月、台湾の政治・経済動向・文化等の記事を掲載する台湾情報誌「交流」4月号に「『アジア・オープン・フォーラム』と日台関係」と題した論考を発表しました。

 今年は日本と台湾が1972年9月に国交を断絶からちょうど50年を迎えていることから「1989年から2000年まで、李登輝政権下の日台間で行われた『アジア・オープン・フォーラム』を手がかりとし、双方がいかに関係を修復し緊密化させていったかを検証」する内容です。

 李総統が中嶋嶺雄氏とともに設立した「アジア・オープン・フォーラム」は、断交していた日台間をつないできた唯一と言ってもいい学術・文化交流のプラットフォームで、お二人が亡くなられたことや当時の方々もほとんどがご高齢か鬼籍に入られていることから、すでに知る人ぞ知る歴史として埋もれている感があります。

 李登輝元総統の晩年8年間、秘書をつとめたことで「アジア・オープン・フォーラム」に懸けた李登輝元総統の思いを聞いていた体験や、中嶋嶺雄氏が2007年に李登輝元総統を日本に招いた折に同行報道の任に当たったこともある早川氏の経歴にもふさわしいテーマです。

 いささか長く、今回は上編のみとなりますが、台湾の民主化が進む1990年代の台湾と日本の交流の一端がよく分かります。掲載に当たっては註を省いたことをお断りします。

—————————————————————————————–「アジア・オープン・フォーラム」と日台関係(上)日本台湾交流協会台北事務所 専門調査員 早川友久【「交流」4月号:2022年4月26日】https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2022/4%E6%9C%88/2204_02hayakawa.pdf

一.はじめに

 1972年9月29日、日本は中華人民共和国と「日中共同声明」を調印し、国交を樹立した。北京における声明の調印に先立ち、台北では日本大使の宇山厚が外交部長の沈昌煥に対し、首相の田中角栄が蒋介石総統に宛てた親電を読み上げた。日本がこの日、中華人民共和国と外交関係を樹立することを通知する内容で、いわば断交の予告であった。また、同時刻に東京でも外務事務次官の法眼晋作が彭孟緝大使を外務省に呼び同内容を伝えている。

 北京での調印締結に立ち会った外務大臣の大平正芳はその後の記者会見で「共同声明の中には触れられておりませんが、日中国交正常化の結果として、日華平和条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められるというのが日本政府の見解」だと述べた。大平は「断交する」とは明言していないが、宇山大使の断交予告と大平による日華平和条約の失効発言を受け、同日夜、沈昌煥・外交部長が対日断交を宣言した。これによって1952年から続いた日本と中華民国(台湾)との外交関係は終了した。ただ、断交後も経済や貿易、技術、文化などの「実務的な関係」は維持していきたいという思惑は双方合致しており、実務関係の窓口として日本側に交流協会(現:日本台湾交流協会)、台湾側に亜東関係協会(現:台湾日本関係協会)が設立されて今日にいたるのである。

 さて、今年は国交断絶からちょうど50年を迎える。日本台湾交流協会台北事務所が2022年1月に行った台湾社会における世論調査が3月18日に発表された。調査結果によると「台湾を除き、あなたの最も好きな国(地域)はどこか」という問いに対し、「日本」と回答した割合は60%であった。

 また、「現在の日台関係をどう思うか」という問いに対して「大変良い」あるいは「良い」と回答した割合は70%であった。これらの調査結果からは、台湾の人々が日本に好意を寄せるとともに、日本との関係が良好だと捉えている割合が高いことが裏付けられている。また、2019年に行われた前回の調査と比較して「日本に対する好感度や信頼度、現在及び今後の日台関係に対する肯定的な評価等はいずれも上昇してい」ると指摘され、日台関係が緊密化していることを台湾の人々もまた実感していることが裏付けられている。

 一方、日本においても台湾の窓口機関である台北駐日経済文化代表事務所(以下、駐日代表事務所)が2021年11月に調査を行っている。調査結果によると「『台湾・中国・韓国・タイ・シンガポール・フィリピン・ベトナム・それ以外』のうち、もっとも親しみを感じるアジアの国・地域はどれか」という問いに対し、「台湾」という回答が最も多く、46.6%であった。さらに、「あなたが『台湾』と聞いて思いつくことは何か」を選択肢から選ぶ問いに対し、「日本に友好的」を選んだ割合が78.9%と突出して高かった。調査結果は、日本人も台湾に対して親しみを感じる割合が半数近くにのぼるとともに、台湾が日本に友好的と認識している割合が高いことが裏付けられた。

 これらの調査結果が示す良好な日台関係からは、50年前の国交断絶当時における険悪な関係は想像し難い。断交に先立つ9月17日、日本政府の特使として台北を訪れた椎名悦三郎・自民党副総裁が乗った車が台北の空港で300人を超えるデモ隊に囲まれ、卵を投げつけられる事件が起きている。断交翌日の新聞では、これまで日本大使館や商社に脅迫電話がかけられたり、大使館への爆破予告など不穏な事件が続いており、台湾の警察が警備を強化していることが報じられた。こうした過激な事件は、時間の経過とともに沈静化していくが、日本との国交断絶は台湾の人々にとって大きな「傷」となった。作家の司馬遼太郎は台湾の取材旅行中に出会った年配の女性から「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と問われ、答えに窮したエピソードを『台湾紀行』に書いている。1945年の敗戦により日本が台湾を放棄したこと、そして1972年の国交断絶を老婦人は「日本は台湾を捨てた」と表現したのである。

 このように、断交後の台湾における対日感情は官民ともに決して良好とはいえないものであった。

 そのような状態のもと、50年にわたり日台間に外交関係はなく、実務的な関係だけが維持される状態が続いた。しかし、今日の日台における調査が示しているのは、双方の社会がともに日台関係は良好だと認識していることである。国交断絶という「仲違い」を経験した日台が、いかにして関係を修復した契機はなんだったのか。もちろん、時間の経過や、外交関係がない一方で民間交流が活発に推進されたことなど、関係修復の要因として挙げられる理由は数多ある。そのうち本研究では、1989年から2000年まで、李登輝政権下の日台間で行われた「アジア・オープン・フォーラム」を手がかりとし、双方がいかに関係を修復し緊密化させていったかを検証するものである。

二.「アジア・オープン・フォーラム」設立の背景

 アジア・オープン・フォーラム(以下、フォーラム)とは、1989年から2000年まで、年に一度、日本と台湾で交互に開催されたセカンド・トラック(民間外交)を推進するためのプラットフォームである。その発案は、総統の李登輝によるものだった。李登輝は1988年1月、蒋経国の急逝に伴い、副総統から総統に昇格していた。李登輝は断交後の日台関係が主に経済と貿易のみの関係に収斂してしまっている現状を改善したいと考えていた。日台を結びつける関係が経済のみに偏っており、経済一辺倒の発展は日台のみならずアジア全体の将来に対しても日台の潜在的な力を十分に発揮できないという憂いから、さらに一歩進んだ多元的な関係へと発展させ、より広く深い日台のコミュニケーションをとれる場を設けたいとの考えである。同時に、李登輝は「現実外交(務實外交)」と呼ばれる新しい外交目標を掲げていた。

 これは、外交関係の有無にこだわらず、台湾にとって重要な国々との実質的な関係を深めることで、閉塞する台湾の国際空間を打破しようとするものである。

 1972年の断交当時から、李登輝が総統に就任した1980年代後半の日台貿易は、実に「年平均18.2%の増加を続け(中略)87年に至っても、日本の対台湾貿易は対中国貿易を総額で上回っていた(対台湾184億ドル、対中国156億ドル)」。つまり、外交関係は失われても、貿易量はむしろ増加し続けていた。また、観光やビジネスの往来も増加の一途をたどっており、経済関係はますます緊密化していったといえる。一方で、外交関係は失われたものの、貿易や観光の結びつきさえ強化されればそれで良いのか、という考えも李登輝の脳裏にあったのではないだろうか。

 地政学的に見て、外交面においても安全保障面においても台湾は日本との関係を強化しなければならない重要な隣国の位置にある。李登輝が総統に就任した1988年時点の台湾では動員戡乱時期臨時条款が未だ有効であり、法理的には中華民国(台湾)と中華人民共和国は「内戦状態」であった。

 李登輝は突如総統職を継ぐことになったが、早い時期に動員戡乱時期臨時条款の「処理」の必要性を認識している。台湾の領有を主張する中華人民共和国と対峙する台湾にとって、「現実外交」を通じ、日本との経済面だけにとどまらない関係改善、推進は急務と捉えていたと考えるのが妥当であろう。

 また、対日関係改善のもうひとつの問題として、日台交流チャネルの世代交代の問題が指摘されている。李登輝の総統就任以前の交流チャネルとしては「蒋介石・経国父子とその側近の主導で反共を共通基盤とした交流をおこなうカウンターパートという色彩が強かった」という。そこで李登輝は「日本との知的交流と多方面の関係強化を図」るためにフォーラムを設立し「台湾と日本における主流の政界・官界・財界・学界を結びつけ」ようとしたのである。

 李登輝がこのアイデアを持ちかけたのは旧知の中嶋嶺雄・東京外国語大学教授であった。李登輝と中嶋の縁も奇異なものだ。李登輝が中嶋の名前を知ったのは、中嶋が書いた「毛沢東北京脱出の真相 激動の中国より帰って」という論文だった。この論文は『中央公論』1967年3月号に掲載されている。発表された当時、李登輝は米国コーネル大学で博士論文を執筆していたから、日本人が米国に持ち込んだ『中央公論』を読んだのではないかと推測する。李登輝は1968年7月に台湾へと帰国するが、ときは戒厳令下であり、日本語の書籍や雑誌の持ち込みが厳しく制限されている時代であったからである。1966年から中国で始まった文化大革命について、当時の日本では文革を好意的に評価する報道が支配するなか、文革を権力闘争として冷静に分析した中嶋の視点に李登輝は驚いたという。李登輝の脳裏に中嶋の名前が刻み込まれたが、二人が実際に出会ったのは、それから約20年後のことである。

 1985年、副総統となっていた李登輝は蒋経国の代理として中南米を訪問した帰途、東京でトランジットすることとなった。そこで、現代中国論を中心に精力的に筆をふるう保守派の論客となっていた中嶋に駐日代表事務所を通じてコンタクトを取り、ホテルオークラの一室へ来てもらったのである。3月13日午後、東京に降り立った李登輝は翌14日、日本の国会議員との朝食会に出席すると、帰国中だった原冨士男・交流協会台北事務所長、在日台湾人研究者、留学生、台湾同郷会幹部らと面会。国会議員との晩餐会を終えた午後9時半に中嶋と会った記録が残されている。当時の写真を見ると、李登輝は晩餐会からそのままソファに座り込んだと思われるネクタイ姿である。中嶋の足元に置かれた大きなアタッシェケースが印象的だ。初対面の二人であったが、夜更けまで話し込んだことは想像に難くない。

 この時、李登輝は63歳、当時の時代背景からすれば、本省人出身の政治家が副総統にまで昇り詰められれば万々歳と捉えていたのではないだろうか。事実、敬虔なキリスト教徒だった李登輝は、蒋経国から副総統に指名すると直接告げられたときのことを述懐し「正直弱ったな、と思った。(中略)60歳になったら山の人たち、つまり日本時代は高砂族と呼ばれた原住民の人々に伝道活動をしようと決意し」ていたと語っているからだ。あにはからんや、1988年1月17日、蒋経国の急逝を受けて李登輝は総統に就任する。蒋介石、蒋経国と2代続いた蒋家による統治が突然に終わりを告げたことによる台湾社会の動揺も落ち着いた同年7月、中嶋は訪台して李登輝と会見する。その当時の模様を中嶋の回顧録から引用する。

「李登輝氏は総統就任間もない1998年7月、こう要請された。『これからは米台関係とともに、日台関係がとても重要です。それなのに、従来の日華関係のパイプは硬直していて、日台関係やアジア太平洋地域の問題を広く、つっこんで議論する場になっていない。新しい交流の場を是非つくってほしい』と。私自身もまったく同感だったので、翌日夜に会食にお招きいただいた席で、要請にお応えしたい旨をお話し、テーブルを囲んでいた方々から賛同の拍手を得たのであった」

 中嶋が綴った「李登輝の要請」であるが、当時交流協会台北事務所長だった原冨士男も回顧録で「李総統がこれからも日台両国にとって極めて重要になる日台関係やアジア太平洋関係を、広くかつ突っ込んで議論する場を持ちたい、と同氏(中嶋)に表示された意向に沿って実現したものである」と中嶋の回想を裏付ける記録を残している。

 李登輝と中嶋の構想は一致し、フォーラム実現に向けての準備が始まる。実際の運営は、台湾側では国家安全会議が実質的な傘下に置いていた国立政治大学国際関係研究中心を事務局として進められた。1960年代から1970年代初期における、台湾の対日外交は蒋介石と総統府秘書長だった張群が独占していたが、蒋経国体制に移行すると、対日チャネルは国家安全会議が中心となり、その体制はおそらくその後も続いていたと考えられる。台湾側のフォーラム運営を実質的に国家安全会議が担っていたことは、李登輝政権がコミットして運営を進めていたことの裏返しでもある。

 窓口を政治大学にしたのは、あくまでも学術的なプラットフォームの場であることをアピールするためと、民間が運営するフォーラムとして日本側とバランスを取ろうとしたのであろう。とはいえ、現実には台湾政府肝いりのフォーラムである。

 1989年に開かれた第1回の出席者には辜振甫・台湾工商協進会理事長、張京育・政治大学校長、郭婉容・財政部長らが含まれていた。辜振甫は台湾五代名家の出身で、翌90年には両岸交流の実務機関となる海峡交流基金会の初代理事長に就任する。李登輝よりも6歳年長の辜振甫は、日本語はもちろんのこと、名家出身らしく教養にあふれた人格で民間外交のトップとしては最適格であった。また、郭婉容は台湾史上初の女性大臣(部長)であり、神戸大学で博士号を取得した才媛である。

 一方、日本側は中嶋が中心となってフォーラムの準備が進められた。資料によると、中嶋が目指した「広い知的交流を目指すものである以上、日台双方のメンバーは、高いレベルの知識人や財界人であるべきで、党利党略や利権がらみでかかわりがちな政治家は排すべき」という原則にのっとった結果、フォーラムの設立に関与、協力したのは亀井正夫・住友電気相談役、金森久雄・日本経済研究センター会長、武山泰雄・元日本経済新聞常務、高坂正堯・京都大学法学部教授、山崎正和氏、稲葉秀三・国策研究会会長、井深大・ソニー創業者、堤清二・セゾングループ代表らであった。

 また、フォーラムの名称は高坂正堯の発案で日本語は「アジア・オープン・フォーラム」と決まり、それを受けて中国語で「亞洲展望研討會」とすることとなった。

三.初期の「アジア・オープン・フォーラム」(第1回〜第4回)

(1) 第1回のフォーラムは台北で2日間にわたって行われ、2日目には総統の李登輝が「貴賓」の身分で出席して祝辞を述べた。しかし、第1回のフォーラムは、当時の台湾であまり注目されなかったようだ。当時台湾で発行されていた中央日報や聯合報、中国時報といった主要紙のいずれもフォーラムの模様を詳しく報じているとはいえず、聯合報が李登輝の祝辞の内容を簡単に報じたのみである。これまでの日台間にはない初めての試みであることと、民間におけるフォーラムであり、実際に目に見える成果がすぐには見えてこないということも作用したのではないだろうか。フォーラム閉幕の翌日、訪台した日本側メンバーが総統府に李登輝を表敬訪問したことを中国時報が黄輝珍記者の署名入りでやや大きく報じているのが目につく程度であった。

 一方で、朝日新聞では香港支局長が署名記事で「2日間の討論で、1人当たり国民所得が6000ドルを超えた(88年)台湾の実績を確認、さらに(1)15分間に1隻、日本のタンカーが台湾海峡を通り(2)日本からの中古パチンコ台を置くパチンコ店が台湾全土で1500店(3)台湾への外国投資の40%は日本から、など72年の断交後、冷却した政治関係とは逆に人、経済の交流が加速している日台の『特別な関係』が改めて指摘された(後略)」と報じている。

 一方で、注目したいのは同記事の「一連の討論を日本側は、かみ合わない面は見られたが『いい雰囲気で話し合った。第一歩としては成功』(飯田団長)と評価。台湾側参加者からは『日台間の新しいパイプとして、(フォーラムを)太くしていきたい』との声が聞かれた」という点である。実際、李登輝も著書で「当時の日本では台湾に対する理解が少なかったために、開催当初はぎくしゃくした雰囲気が否めなかったが、回を追うごとに双方の理解が深まり、コミュニケーションが円滑になるのが見てとれた」と書いている。実際にフォーラムを取材した新聞記者と李登輝の回顧が一致する点から、当時の日台間におけるコミュニケーションの不足、あるいは認識のズレはかなり深刻なレベルだったのだろうと推測できる。

 事実、第1回フォーラムでの李登輝の挨拶は次のように報じられている。「李総統は開幕式に演説、日台間に相互の理解が不足していると嘆き、台湾の苦しい努力と前途に、より深い認識と理解を求めた」。ただ、李登輝が発言したとおり、当時の日本の「台湾に対する認識や理解、関心」が不足していたという前提に立てば、台湾側の日本に対する認識や関心は相対的に高かったこととなり、そのためにフォーラムの開催が日本ほどセンセーショナルに受け止められなかった可能性は指摘できるだろう。フォーラムの開催がむしろ日本の関心を台湾に向けさせるためのツールとして用いられたもの、ともいえる。

(2) 翌1990年、第2回のフォーラムは会場を日本に移して開催された。東京プリンスホテルおよび神奈川県大磯町にある大磯プリンスホテルである。プリンスホテルが会場に選ばれたのは、堤清二・セゾングループ代表が日本側の賛同者として名を連ねているからだろう。第2回フォーラム開幕当日、中国時報は「日台関係の改善に新しい契機は出現するか」と題する記事を掲載した。この記事では郭婉容・経済建設委員会主任委員(閣僚級)が出席するとともに、開会式で前年に首相を辞任した竹下登が出席して祝辞を読むことが報じられている。また、台湾側参加者は、政治大学校長の張京育を団長に林碧[火召]、黄天才、謝長廷、許介麟、高英茂らの名前がみえる。林碧[火召]は李登輝政権でのちに総統府副秘書長や国家安全会議副秘書長を歴任し、蔡英文政権では総統府秘書長に就任する。黄天才は日本駐在20年以上のベテラン記者出身で、当時は中央通訊社董事長の地位にあった。謝長廷は2008年に民進党の総統候補者となり、2022年現在は駐日代表を務める。許介麟は台湾大学法律系教授で日本研究の大家であり、高英茂はのちに国家安全会議諮問委員をつとめることになる人物だ。また実業界からはのちに中国信託ホールディングスの会長となる辜濂松らが出席している。

 第2回フォーラムで、台湾は早速ひとつの大きな成果を収めたことになる。ゲストの身分ではあるものの、現職閣僚である郭婉容・経済建設委員会主任委員の訪日と出席の実現である。

 日本における「省」は、台湾では「部」や「委員会」の名称で表記される。中央行政機関組織基準法では「二級機関」と定められ、トップである「部長」と「主任委員」はそれぞれ大臣すなわち閣僚である(「一級機関」は立法院などの「院」)。台湾の現職の閣僚が訪日してフォーラムに出席したことの意味は大きい。また、民間フォーラムの体裁ゆえ、前年に首相を辞任したばかりの竹下登が出席できたことも台湾では大きく報じられた。中国時報は竹下の「まだ2回目のフォーラムだが、5回目くらいには驚くほどの成果を挙げるかもしれない」という発言を報じている。フォーラムは早くも第2回で成果を出し、李登輝の目指す「現実外交」が実を結んだといえる。

(3) 1991年、第3回のフォーラムは再び台湾に戻り、台北市の国際会議中心を会場に行われた。日本からは団長をつとめた飯田経夫・国際日本文化研究センター所長や堤清二・セゾングループ代表ら、財界と学術界を中心に数十名が参加した。報道によると、日台双方の出席者は約150人。フォーラム開幕初日の夕方、日本側出席者は総統府を訪れ李登輝と会見している。

 その模様を報じた中央日報によると、李登輝は3年目を迎えたフォーラムがその機能を発揮し始めていると評価する発言をするとともに、日台双方の意見交換とその後のフォローアップにより、日本の台湾に対する理解はさらに進んでいると指摘した。また、フォーラムを通じて特に学術や文化の面における民間交流を進め、協力関係を築いていきたいと述べている。第3回のフォーラムでは「東アジアの政治と社会の変遷」、「台湾経済自由化と日本の役割」、「経済発展と文化建設」、「アジア太平洋経済全体のレビューと展望」など5つのテーマにおいて討論が進められた。

(4) 第4回のフォーラムの舞台は京都である。台湾側の団長は辜振甫・台湾工商協進会理事長が務め、前年同様、郭婉容・経済建設委員会主任委員が現役閣僚としてゲスト参加した。また、報道によると張京育・政治大学校長、馬樹禮・元駐日代表、許水徳・駐日代表、劉泰英・台湾経済研究院院長らの顔ぶれのほか、日本側からは稲葉秀三や亀井正夫、井深大、三浦朱門、深田祐介、石井威望、中谷巌らが財界や学会から出席、日台双方で100人以上の参加となった。

 また、この第4回から日台双方の参加者のみならず、米国や中国、韓国やロシア、香港からのオブザーバーが出席している。フォーラムが第4回を迎え、台湾でも日台の大規模な恒例イベントと認知され始めており、中国時報は新聞の1面すべてを使ってフォーラムの模様を伝えている。

 第4回での複数の成果と特徴は次のとおりであった。(ア)台湾の現職閣僚らが訪日してフォーラム出席、(イ)日本側から柿澤弘治・外務政務次官が出席、(ウ)加藤紘一・官房長官と3人の現職閣僚が会談、(エ)李登輝の訪日が初めて俎上にのぼる。

(ア) 前年に続いて出席した郭婉容・経済建設委員会主任委員、林金生・考試院副院長、黄石城・政務委員(無任所大臣)が現職閣僚などの身分で訪日し、フォーラムに出席したことである。実はこのときの3閣僚の訪日は、日本でほとんど報じられていない。後述する加藤紘一・官房長官が「台湾要人と会談」の記事で確認できる程度である。実はこの2年後の第6回フォーラムでは、現役閣僚の訪日をめぐって大きく報じられ、日本・台湾・中国の間で一悶着起きている。この時期の現役閣僚の訪日はまだ静かな環境のなかで行われていたのである。先行研究によると、1990年代前半は日台双方ともに公式・非公式な「ハイレベル接触」が模索された時期であり、フォーラムはいわばその「はしり」であった。

 要人の訪日を通じて、台湾の国際空間を拡大させようという試みは、最終的には李登輝の訪日問題に収斂していくことになるが、この問題の検討については次稿で行いたい。

(イ) フォーラムには外務政務次官の柿澤弘治が出席した。2年前にはその前年に首相を退いたばかりの竹下登が出席しており、柿澤の出席はそれに続く成果といえる。柿澤の出席を報じた中国時報は「これまで台湾を直視することを恐れていた日本の外務省にとって重大な突破であるとともに、台湾の部長級(大臣級)の訪日の意味が大きいことが証明された」と指摘した。また、問題点として「次回以降の訪日では、日本側に対して対等の方式での対応を要求するべきだ」としている。

(ウ) 官房長官の加藤紘一は、フォーラム閉幕後も日本に滞在していた郭婉容や辜振甫と東京都内で会談した。読売新聞が報じたように「台湾は最近、天皇訪中など日本が中国重視の姿勢を強めていることを懸念しており、(中略)日本がそうした台湾側の事情に配慮、新たな関係構築を探り始めたことのあらわれ」とみてよいだろう。1972年の断交以来、重要閣僚が台湾当局者と接触するのは極めて異例のことであり、会談は非公式なものだが、外務省幹部も同席していたことが報じられた。余談だが、加藤は外務省在職中に台湾大学への留学経験がある。

(エ) 第4回フォーラムの台湾側団長を務めた辜振甫は、2年後に日本で開催されるフォーラムでは李登輝が訪日できるだろう、との見通しをメディアに語っている。実際、第4回は京都での開催であったため、京都帝国大学出身の李登輝が訪日してフォーラムに出席するのではないかという憶測があったという。

 この時点では、台湾の現役閣僚の訪日は何ら問題とならず、李登輝という現職総統の訪日も初めて言及されたにすぎなかった。2年後に日本で開催されたフォーラムでは現役閣僚の訪日が問題となり、李登輝の訪日問題は以後、数年にわたって日台間でくすぶり続け、日台関係を大きく毀損することになる。その点、第4回フォーラムは、現役閣僚が参加した最後の静かなフォーラムだった、といえるだろう(中嶋の回想によると、李登輝の訪日可能性が非常に高かったのは第4回の京都開催と、李登輝が総統退任後の2000年に最終回として行われた第12回だったという)。その一方で、様々な機会を捉えて関係構築を進める、李登輝の「現実外交」がさらに前進した回だったと評価することもできる。

四.むすびにかえて

 本稿で取り上げた第1回から第4回までのフォーラムは、現存する資料が限られていること、実際の運営に関わった関係者が年齢的にも接触しにくいことから、報道資料を参照する割合が必然的に多くなることは否めない。第5回以降のフォーラムについては、日台双方の事務局が作成した資料が多く残されている。次稿では報道資料に加えて公式資料の分析を通じて各回の成果を検討することで、李登輝政権下で始まり、李登輝の総統退任とともに幕を閉じたフォーラムが日台関係にどのような影響を及ぼしたのかを検証していきたい。

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