――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港92)

【知道中国 2210回】                       二一・三・仲二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港92)

 

政治とは関わりのないものの、ある面では香港社会の本質にかかわるような思い出を。

新界の林村の山中で、4人の子供を相手の寺子屋式授業を始めてから3か月ほどが過ぎた頃だろうか。子供たちの父親である中文大学の数学教授から、「教える時間をもう少し増やし、土曜日は朝から始めて夕方まで教え、夕食を食べて、ここに泊まり、日曜日の朝に帰ったらどうだ」と提案があった。そのために庭の隅の小さな家を整備し、シャワー設備とベッドを新調したというのだ。なんと手回しのいいことかと感心したが、さらなる栄養補給も可能になることだし。有難い限り。かくして、もちろん答は「はい」である。

朝9時頃から始めて、家族全員(両親に4人の子供)と一緒に昼食を。簡単な内容で終わることもあれば、豪華なフルコースの時も。

とにかく教授は好奇心が半端ではなく、時にその辺の葉っぱに蹲っている青虫を捉まえ、水に漬け糞を取り除いた後に油でカラッと揚げる。塩をパラパラと振り掛けて、目の前に差し出される。躊躇していると、「葉っぱは葉緑素。コイツは葉緑素の固まり」と。そういわれて尻込みしているわけにはいかない。そこで口に放り込む。不味くはないが、そう旨いものでもない。とはいえ食べられないわけでもない。事実、食べたのだから。

昼食の後は小休止。それから寺子屋再開。夕食が終わると子供たちは自分たちの寝室へ。席を変えて居間で教授と酒を飲みながらの興味深い話が、次から次へと飛び出す。

夜も更けると、そろそろお開き。漆黒の夜空を眺めながら、庭を流れる小川に架かる橋を渡り、小さな家でシャワーを浴びて、それから熟睡。

翌朝起床したら、そのままバスで大埔墟に向かい下宿に戻った。タイミング好く逆方向の大埔墟発元朗行の路線バスがやって来た時は、日曜日で時間もあり新界でも探索しようかと、それに乗ることにした。もっとも日曜日でなくとも暇は有り余っていたわけだが。

大埔墟方向は下り坂だが、元朗行はしばらくは上り坂が続く。バス停で数えて3つほど先には、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)や中華電力を経営するユダヤ系財閥の嘉道里(カドリー)一族経営の有機栽培で有名な嘉道里農場があった。牛?公司の生産拠点だ。

坂を上り切った辺りで視界が360度大に開け、目の下前方の遥か遠くに滑走路を備えた軍事施設が見える。石崗の英駐留軍基地で、ここを守っていたのは勇猛果敢を誇るグルカの傭兵だった。いまは人民解放軍の香港駐屯部隊基地となっている。

英駐留軍基地を迂回して進めば元朗だ。当時の元朗は、300メートルほどの直線道路の両側に小さな店舗が並んだだけの田舎町然とした佇まいだった。街の中央部でバスを降り、近くの食堂で遅い朝定食を食べる。コンソメスープにマカロニとハムの細切りが浮かんだ伊太利粉を注文する。食事が終わる頃、適温の?茶(ミルクティー)が出される。皿にこぼれた分をフチが欠けた分厚いカップに戻し、ゆっくり飲む。さて、時間もあることだし。

商店の裏手は一面の田圃や畑であり、遠くで農夫が水牛に鞭を入れて農作業中だ。商店と商店の間の路地を抜け、トラック改造のバスで農道を中国との境界を流れる深?河に向かって進むと、文氏一族の住む新田村に至る。

新田村という名前からして、ここが新しく開けた村であることは判る。ここの住民はほとんどが文さんである。いつの頃かは知らないが、文さん一族は故郷の汕頭を離れ、新天地を香港に求め深?河を越え、新界に移り住んだ。肥えた土地は、すでに先住者のもの。だから文さん一族は勢い無主の痩せた土地に住み着くしかない。新田村の周囲の田圃は潮を被るから先住者が見向きもしなかった土地であり、思うように収穫量が得られない。

九龍やら香港島の街場で仕事を探そうにも他の一族や他の集落出身者に押さえられていて、ロクな働き口は見つからない。そこで一気に香港の外に飛び出すしかなかった。《QED》


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