――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港74)

【知道中国 2192回】                      二一・二・初一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港74)

 

香港での生活に慣れてくると、酒の上での“バカ話”にも事欠かなくなってくる。いや正確には枚挙に暇がない、と言うべきデス。

ある夜、といっても時計はとうに12時を回っていた。2段ベッドの上段でウトウトしていた頃だった。ドアがギ、ギ、ギーッと鳴って千鳥足の同室のTさん。もう目が飛んでいる。その後ろからビールやら竹葉酒などを抱えた酔眼の日本人留学生が2人。そのうちの1人が、やおら窓を開け放って大声で、「お~い、ヒイズミ~、起きろ~、帰ってきたぞ~」と。すると隣室から「は~い」と素っ頓狂な大声が。どうやら睡眠中の大家のSさんを叩き起こしてしまったらしい。

狭い空間に3人が車座に座り酒盛りが始まり、これに2段ベッドの上から合流する。他愛もない会話とホラ話がワイワイと始まったのだが、20分ほどすると突然ドアが荒々しく開いて、Sさんが入ってきた。まさに闖入、いや正確には怒髪天を突く勢いである。「キミたち、親からカネをもらって留学している。勉強でしょう。酒を呑んでばかりいて、恥ずかしくないか!」。仁王立ちのSさんが放った日本語の怒声である。

たまたま2段ベッドの上段だから、幸運にもSさんと目を合わせることなかった。とはいえ、上から見下ろしたSさんの白い肌の首筋の辺りには血管が浮き上がっていた。相当に頭に来ていたに違いない。それもそうだろう。安眠を妨害されたのだから。

Sさんの有無を言わせぬ剣幕に気後れして、3人は「ハイ、ハイ、スイマセン、スイマセン」と平謝りの態。4人のやり取りを二段ベットの上から眺めていて、笑うに笑えず。連日連夜とまで頻度は多くはないが、日本人留学生の深夜の酒盛りにSさんの堪忍袋の緒が切れてしまった次第である。当然ながら、やはり“猛省するは我にあり”だろう。とはいえ2週間ほどが過ぎ、ほとぼりの冷めるころには、再び性懲りもなく酒盛りである。

酒は買ったものの、つまみを買う金がない。そんな時は、帰りがけに店先でカボチャやスイカの種をポケットに詰め込んだ。万屋の店主が見て見ぬふりをしてくれたのである。

ある時、日本人留学生の1人がどこからかバリカンを手に入れてきて、「これで頭を刈れば床屋代が節約できる」と。浅知恵の極みだった。かくて5人ほどでキレイさっぱりしたところで、誰言うことなく「節約した分で飲もう」。もちろん衆議一決。異論があろうはずもない。授業をサボって、午後2時頃からキャンパス近くの路地裏の上海料理の屋台へ。

全員でカネを出し、先ずはビール。次いでウイスキー。床屋代を節約したのだからと、もう1本。時間は過ぎて5時半近く。その日、Tさんも日本語のアルバイトがあった。そこで2人して、おっとり刀で第一日文に。とはいえ、2人とも酔眼朦朧。なんとか教室で授業を始めたが、隣の教室の様子がおかしい。行って見ると、Tさんは黒板を背に教卓にうつ伏して高鼾だ。学生は異口同音に、「先生、クサイ。酒クサイよ」。授業が終わる頃、Tさんはやおら目を覚まし、「おい、呑みに行こう」。もちろん断る理由など全くナシ。

キャンパスの近くで腰を落ち着けて飲んでしまうと、時の過ぎるのを忘れがち。気づけば夜中の12時を過ぎている。それから千鳥足で文蔚楼の下宿まで2時間ほど歩いて帰るのはシンドイ。そこでキャンパスに戻る。じつは校舎に沿った歩道の並木の1本の幹を攀じ登ると、学生寮につながる2階の廊下に降り立つことが出来た。それから学生寮にお世話になる次第。もちろん、手土産代わりにビールを持参するのが礼儀と言うもの。

その夜もビールを抱えて“あの立木”を目指したのだが、我が目を疑った。頼りの立木が消えていたのだ。酔いが醒めるやら、頭に来るやら、恨むやら。致し方なくビールを抱え文蔚楼の下宿にトボトボと歩いて帰るしかなかった。後で知ったのだが、学生寮の風紀の乱れを警戒した学生課が伐ってしまったらしい。やはり天網恢恢・・・である。《QED》


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