――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港44)

【知道中国 2162回】                      二〇・十一・念三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港44)

 

1960年代の半ば前後になると、香港を故郷とする第一世代のうちの最も早い層が青年期に差し掛かりつつあった。彼らにとって大陸は共産党が支配する“未知の地”でしかなく、香港こそが故郷であり、香港に代わる故郷はない。であればこそ香港に対する感情は父親世代とは違っていて当たり前だろう。共産党によって恐怖支配されてはいるが大陸こそが故郷である父親世代にとっては、香港は飽くまでも仮住まいの地でしかなかった。意識の上では「北望神州」――北に神州(ふるさと)を望む――であったに違いない。

人口構成の変化と同時に、街の様相も変化を見せる。人口過多状態になった香港島の繁華街から、九龍や新界の方角に向かって人口移動が始まった。

海岸埋め立て工事が本格化し、新界に工場団地が建設され、香港や九龍の各地に大型住宅団地が出現する。早くから開けた繁華街で知られる上環・中環の1971年時点の人口が1961年時点に較べ半減したように、香港島では一部に人口減少が起きていた。

香港島、九龍、新界(九龍に接続する農村部と離島)と別れていた各地が、トンネル・海底トンネル・道路の建設、フェリー路線の拡充などで結ばれるようになり、交通インフラの面における香港としての一体化が進んだ。

安かろう悪かろうのマガイモノの代名詞でもあった香港製品も、香港政庁が進めた工業化政策の波に乗って確実に進化していった。1971、72年頃の街には、「SONY」そっくりのデザインで「U」が限りなく「O」に近い「SUNY」、「adidas」と1字違いの「abidas」ブランドのスポーツ用品がなどが氾濫していた。今となっては笑い話だが、日本人観光客が買った“スイス製”の高級腕時計も、東京行きの帰国便搭乗前には動かなくなったとか。

1966年、香港政庁は半官半民の貿易発展局を発足させ、香港の製造業の技術力・品質向上と海外での販路開拓に努めた。1971年、同局はロンドン、フランクフルト、ブリュッセル、ニューヨーク、シカゴ、ロスアンゼルスなど海外11カ所の事務所を擁し、おもちゃ、アパレル、宝石などの海外展示会を積極的に開催している。

いわば香港全体が官民合同で工業化に邁進していた時代である。その顕著な一例を製造業人口に求めることが出来る。1971年の労働人口に占める製造業従事者の割合は47%に達していたのだ。もちろん、その後の香港経済が辿った質的大転換――製造業から金融サービスへ――から、労働人口の割合は長期低落化するわけだが。

1966年には九龍と香港島間のフェリー料金値上げに端を発した社会不安が起り、翌年には文化大革命の影響を受け「香港暴動」が発生した。ことに後者は香港政庁と香港住民に大幅な意識変革をもたらしたと言われる。政庁は民政に重点を置おかざる得なくなった。「殖民地で搾取する」から「殖民地で共に生きる」への大転換だ、と評価する研究もある。

1967年に各地に設けられた民政担当部門の民政署は、香港最大の慈善団体である東華三院を筆頭に、同郷会・宗親会・宗教団体・青年団体・街坊会(町内会に相当)などの民間組織と共同し、いわば「地域づくり」を目指した。この動きを後押ししたのが、あるいは香港暴動が引き起こした住民の香港への帰属意識の高まり――香港暴動のような大掛かりな社会不安は、住民が香港政庁を支持することではじめて鎮静化可能――だったとも考えられる。いわば災い転じて福となった、ということだろう。

満足とは言えないが、住宅問題も教育問題も解決に向かい始める。もっとも1966年における政庁の教育支出は全支出の4.5%であり、教育は依然として贅沢とされ、一般家庭の子弟が高等教育を受けるのはまだ困難だった。だが生活水準は確実に向上し、1960年代初期段階では贅沢品の象徴であったテレビも、1971年には全家庭の70%が持つようになる。

かくして香港は確実に、着実に、大きな変化の時を送っていたわけだ。《QED》


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