――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港213)
彼らの後を追う。出入り口は弥敦道(NATHAN ROAD)が梳士巴利道(SALISBURY ROAD)に交わる辺りにあったと記憶するが、そこから構外に出る。構外に出て梳士巴利道を横断し、路線バスで職場に向かう。つまり無賃乗車だ。そうか、この手があったのだ。
じつは沙田への帰路は第六劇場に立ち寄るから、舞台が跳ねる頃には九龍から沙田方面行きの最終便には間に合わない。片道しか使わないわけだから、月票とは言うものの割引にはならない。というわけで、翌月から香港を切り上げるまでの2年半以上・・・非常遺憾(誠に申し訳ないことを致しました)!
ところでSALISBURYの「I」は発音しない。ところが英語の発音に近い漢字で表記しようとした際、どうやら香港側の翻訳官が字面通りに受け取って「梳利士巴利道」としてしまったらしい。だから当時は梳利士巴利道という表記だったと思う。70年代も大分過ぎた頃になって、梳利士巴利道から現在の梳士巴利道に変わったのではなかったか。
というわけで、それからというものは操車場出入り口から駅構外に出て梳利士巴利道で新亜研究所方面行きのバスに乗る。もちろん、こっちは“正規料金”であった。
この路線のバスに乗った時だったと記憶するが、新亜研究所近くのバス停で慌てて飛び降りた。なにやら気になって尻のポケットを探ると財布がない。なかには大事な学生証と家賃を含めた当面の生活費が入っていた。大失敗である。とはいえ生活費は些かの蓄えで工面できそうだが、問題は学生証だ。そこで慌てて研究所の事務室に駆け込み、事務長の趙さんに事情を話して再発行を依頼した。
数日が過ぎると趙さんからお呼びが掛かった。学生証の再発行かと事務室に行くと、「キミ宛に、この手紙が」と封書を渡された。差出人は記入されていなかったような。
さて、誰からか。訝しげに開封すると、バスで失くしたはずの学生証が出てきた。やれやれ生き馬の目を抜くような香港にも親切な人がいるものとホッコリとした気分になったが、同封されていた手紙を読んで驚き、そしてニヤニヤで最後はニッコリである。
「バスの中で財布を拾った。学生証が入っていたので研究所宛に送る。学生にとって必要不可欠だから、これからは大切に取り扱うこと」。ここまでは有り難いご親切と感謝し、その先に進んだ。すると「財布には少なくはないカネが入っていた。留学生にとって大切な生活費だとは思う。だが私も生活が苦しい。そこで学生証を郵送した報償と思って、このカネを使わせてもらう。悪しからず」と記されていた。
手紙を趙事務長に渡すと文面を目で追いながら、「拾った財布の中身を抜いて使うのが当たり前。学生証だけでも持ち主に送り届けるとは奇特なヒトだ。世知辛い香港では奇跡だ。いい経験をした。カネは授業料と思えばいい」と。たしかにそうだろうし、そう思う。だが貧乏学生にしてみれば、相当に高い授業料であったことは言うまでもなかった。
研究室をでて第一日文へ。9時に授業を終えるや、押っ取り刀で第六劇場への生活に変化はない。だが、沙田に移ってからは第六劇場からの帰りのルートが違っていた。
バスで九龍方面に戻るのだが、長沙湾道が大埔道に交わる少し手前で降り、大埔道に出て沙田方面行きの小巴(ミニバス)を拾う。その前に近くの屋台で雲呑麺に湯がいた油菜に牡蠣ソースを掛けた油菜を食べる。11時過ぎの遅い晩飯だ。油菜の他にレタスや花韮などもあった。時に魚の皮を唐揚げにした魚皮を注文したことも。そんな時には近くの士多(ストアー)に飛び込んで冷たいビールを調達する。
晩飯は、寒さと共にホッカホカの糯米鶏(煮込んだ鶏の肉と糯米を竹の皮で包んだ粽)に変わる。糯米鶏を蒸す蒸気が出すピーの音は、寒い季節の風物詩だ。ついさっき見た舞台を思い出しつつ糯米鶏を懐に暖を取り小巴を待つ。細やかな至福の一刻だった。《QED》