――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港192)
■時代不定=「十八?」「目蓮救母」「青石山」「泗州城」「大泗州城」「紅橋贈珠」「天女散花」「天河配」「白蛇伝」「金山寺」「水漫金山」「断橋」「琵琶仙子」「紡棉記」「打面缸」「小放牛」「天官賜福」「拾黄金」「天官賜福」「大賜福」――
前回に挙げた「伐子都」から今回の「大賜福」まで、公演時間は同じではない。「四郎探母」や「大登殿」などのように長い時間を掛けて演ずる「大軸戯(通し狂言)」もあれば、「小放牛」や「三岔口」のように短い時間で終わる「折子戯(一幕物)」もある。
第六劇場の開演は午後6時で終演は11時近く。演目と演目の間に若干の休憩時間が挟まるから、正味の公演時間は4時間半前後。この時間内に収まるよう、日替わりで演目が選ばれる。これだけの時間内に収まらない大軸戯の場合は、午後11時前には幕となるよう端折るなど、適宜手が加えられていた。
折子戯の場合は、ともかく4時間半前後の公演時間を持たせなければならないから、たとえば「黄金台」「烏盆記」「小放牛」「古城会」のように時代背景もテーマもバラバラな演目を組み合わせて公演された。
出演する生徒が多い頃はまだしも、王雪燕、袁明珠、康玉釧と主軸が1人抜け、2人抜けとなると、勢い上演演目は限られ、演目のマンネリ化が始まる。第六劇場の舞台に黄昏が逼っていた頃には、毎週月曜日は「楊排風」でホボ決まり。戯迷連からすれば、たまには大きな演目と期待するわけだが、春秋戯劇学校の貧弱な陣容ではムリな相談と言うもの。京劇を酷愛しているわけだから、ジッと我慢、がまん、ガマンするしかなかった。
「楊排風」の次に数多く見た(正確には「見せられた」というべきかもしれない)のが「小放牛」だが、それというのも難しい演技が求められるわけでもなく、ストーリーは単純で、登場するのは牛飼いの少年に村娘のたった2人。だから初学者でも舞台が務まった。
時は長閑な春の一日。場所は村外れの牧草地。草を食む牛を眺める少年。そこにやって来たのが驢馬に跨がった娘。「何処行くの」「こっちの村からあっちの村へ」との会話をキッカケに、手持ち無沙汰の牧童の呼び掛けに娘が応じ、2人による歌の掛け合いが始まる。
2人の他愛のない遣り取りが続くが、娘の足がマントウのようにデカいとか。小さいとかといった類の台詞が口にされるや、客席の戯迷連は急にニヤけた顔つきになる。中には「ヒュー、ヒュー」と口笛を者もいれば、腹を抱えて笑う者も。たぶん「マントウのようにデカい足」が何かを指しているのだろうが、その何かが分からない。戯迷連に問い質すわけにも行かず、そのままにして一緒になって笑って済ませてしまった。
やがて唱い疲れるや、牧童はその場に残り、村娘は立ち去って終わり。時間稼ぎの演目に過ぎないのだが、とはいえやや大袈裟に表現するなら、中国庶民の人生観を感じさせるシーンがないわけではない。たとえば芝居が始まるや、舞台中央に立った牧童が開口一番に「功名」と声を上げる。一呼吸した後に続ける台詞が、なんともステキだ。
「功名不成、富貴是個天生。光陰易老、好似風裡個燈。有朝大限到、黄泉路上行。金銀過百斗、那個半毫分。只看奔労碌、只為口和身、口・・・和身」
――名誉もカネも生まれつき。人生なんて短くて、風に吹かれるローソクみたい。あっという間に終わりが来るし、たちまちあの世に長の旅。持ちきれないよな大金だって、気がつきゃもはやこれっぽち。あくせく稼いでなんになる。ハラと身がもちャ、それでいい。ハラと身が持ちャ・・・嗚呼、それでいい――
牧童の台詞、「生の執着は現実的実効的の儒教思想となり、その抗すべからざるを知って服従した生の諦めは、虚無恬淡の老荘的思想となった」(青木正児『江南春』平凡社 昭和47年)とまでは言わないが、やはり「只為口和身(胃袋だけが人生さ!)」となるか。《QED》