――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港188)

【知道中国 2306回】                      二一・十二・仲四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港188)

関平を演じた董雲?は小顔で目鼻立ちはキリッとしていたが、喉に難があった。大柄ではなかったが引き締まった体つきからして、立ち回りを専門とする武生がピッタリだったように思う。年齢は18、9歳だったろうか。こちらが日本人だと分かると、「あのね」と呼び掛けてきた。なんでも日本を旅行した際に覚えた日本語が「あのね」だったとか。ある時、「映画に出たから見てくれ」と。題名も映画会社も忘れたが、孟景海と連れだってローマの街を歩き、トレビの泉を背にして2人が「羅馬好大(ローマはでっかい)」と賛嘆の声を上げたシーンが印象的だった。

董雲?の演ずる「伐子都」の子都、「白水灘」十一郎、「三岔口」の任堂恵なども良かったが、なかでも一番印象に残ったのは「鉄公鶏」の張家祥。馬子に扮し敵の太平天国軍の陣中に乗り込み獅子奮迅の激しい大立ち回り。最後は舞台中央で弁慶の立ち往生宜しく肩で息しながらに亮相(みえ)を切る。董雲?にとって最高の舞台ではなかったか。

陸慶平も董雲?と同じく武生。身軽な動きは董雲?を凌いだが、いかんせん体の線が貧相で大きな役柄は些か荷が重かった。?を演ずることもあったが、胴間声にはほど遠く高温で細い声だっただけに、迫力が求められる主役級の?には不向きだった。役者の数が少なくなるに従って老生を務めることもあった。それだけ器用だったということだが、やはり武生専門であって欲しかったものだ。

今から振り返れば1972年12月の皇都大戯院での公演が、あるいは春秋戯劇学校が最も充実した陣容を誇っていた時代ではなかったか。

それというのも1973年に入ってからの第六劇場を思い返すと、最紅(イチバン人気)の王雪燕の出演が極端に少なくなり、いつか気づかぬうちに袁明珠に康玉釧も舞台から消えていた。3人とも女性だが、王雪燕は旦、袁明珠と康玉釧は生の大黒柱だっただけに、公演できる演目が少なくなってしまい、カブリツキの戯迷連を落胆させたことはもちろんだ。

だが禍転じてなんとやら。ある日の舞台の左袖に、「不日出塲 北方名伶王登霖 自拉自唱」との布告が張り出された。

当時の香港の常識では「北方」は中国大陸を指す。ということは、あるいは中国から合法(ひょっとして非合法)で香港に移住してきた名伶(めいゆう)の王登麟が、近いうちに出演する。しかも彼の特技は「自拉自唱」、つまり京劇伴奏用の二胡である琴胡を拉きながら唱う――こう事前に宣伝するのだから、やはり戯迷としては期待しないわけには行かない。

数日後、その時がやってきた。たしか最初のお目見えは「西遊記」の猪八戒だったはず。「北方名伶」の看板を掲げるからには初演は孔明など大きな役どころと思っていただけに、猪八戒とは意表を突かれた。大いに拍子抜け。だが「北方名伶」の“惹句”は大袈裟に過ぎるものの、その軽妙洒脱な身ごなしと台詞回しは日頃の第六劇場ではお目に掛かったこともなく、新鮮な驚きだった。

やがて舞台中央に椅子が置かれ、琴胡を手に王登霖が唱いだした。扮装は丑(どうけ)の猪八戒だが、唱はレッキとした老生であった。それだけに長い間女性が演ずる老生の芸に慣れてしまった戯迷連の耳は“納得の響き”に満だったはず。

王登霖が新たに加わったものの、王雪燕、袁明珠、康玉釧の3人を欠いたままでは上演できる演目が限られてしまい、1973年後半辺りからは精彩を欠いた舞台が続いた。

マンネリ気味の舞台の下に陣取る戯迷連の間でも、「春秋戯劇学校の経営が思わしくない」「パトロン陣が学校経営資金提供を渋っている」「粉菊花校長も気力が失せた」「第六劇場での公演もこれまで通りにはいかないだろう」などの噂が囁かれるようになった。《QED》


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