――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港75)
当時の住所は香港九龍渡船街文蔚楼24楼××号で、文蔚楼に向かって左隣は文昌楼。同じように「文」の字を冠した名前で、同じデザインの高層アパートが左右に2棟、前後に3列で6棟が並んでいた。1階に種々雑多な商店が入った所謂「下駄履きアパート」と言ったところ。住民の社会階層は中の中程度だったろうか。
アパート群の前は広い駐車場で、その一角に路線バスの発着所があり、その先が佐敦道碼頭(ジョーダン・フェリー)だった。九龍と香港島を結ぶ海底トンネルが未完成だった1970年代初頭は、トラックはここからフェリーで香港島に運ばれていた。
アパートの裏手は海で、「蜑民」と呼ばれる船上生活者にとっては住まいであり職場でもある船――罟仔艇(小型巻き網漁船)、蝦艇や大眼鶏(エビ底曳き網漁船)、扒艇(大型巻き網漁船)、唐家拖や七棚拖(大型トロール漁船)など――が係留されていた。
近くに航海の安全を守る神様の媽祖を祀る廟があり、媽祖の誕生日にあたる旧暦3月23日、赤や金色に彩られた「花座」と呼ばれる巨大な移動神祠を乗せた船が集まり、鳴り響く爆竹の硝煙が立ち込める一帯は暫しの華やぎに包まれたものだ。
香港の民俗学研究書では「花座」は英語でPortable Shrineと訳されているが、幅は3~4mで高さは6~7mほどあったように記憶する。日本人的感覚では、縁起物の熊手の超大型で超ハデ版と表現するのが適当だろう。
廟の前に広がる広場では、夜の帳が下りる頃になると三々五々と屋台が立ち始める。たしか毎晩であったと記憶するが、アセチレンガスの灯りに誘われて出掛けた。
生活雑貨、衣類、古道具や古本などが売られ、大道芸も演じられていた。「自拉自唱」などと銘打って胡弓を拉きながら唱う芸人もいたが、素人芸に毛の生えたレベルに過ぎなかった。
とはいえイカ、鳳爪(鶏の足)、香腸(中国式ソーセージ)、串に刺した魚団子など種々雑多なスナック類を食べながら、夜の数時間だけの摩訶不思議な空間に浸ったものだ。食べ物屋の中でイチバン顔なじみになったのが、天ぷら屋のオヤジだった。
天ぷら屋といったところで屋台などを構えているわけではない。屋台が立ち始める頃になると、どう見ても手製としか思えない粗製乱造気味の台車に商売道具の鍋、七輪、廃材を小さく切り刻んだ燃料、油、うどん粉、水などを乗せてやってくる。車道と歩道の境目辺りの定位置に七輪を置いて、火を熾し廃材をくべる。鍋の油の温度が上がるのを待ちながら、干しエビや刻んだ菜っ葉類を放り込んだうどん粉を水で溶いた。
油が適温になった頃、オヤジはやおら立ち上がり、飛び跳ねる高温の油滴から守るために、両足を厚手の紙で包み、何か所かを紐で縛った。それから腰掛に座って天ぷらを揚げ始めるのだが、熱せられた油の入った鍋は体の正面で、両足の間に位置するわけだ。
オヤジは箸を使わなかった。硬めに溶いたうどん粉を右手で取り、油でギトギトになった鍋肌に10㎝×20㎝程度の大きさに塗り付ける。しばらくすると鍋に付いた面が揚がり、熱された油の中にズルズルと滑り落ちる。そこでパチパチと油が足に飛び跳ねるが、厚手の紙に守られ火傷することはない。創意工夫。必要は発明の母とは、よく言ったものだ。
練ったうどん粉を右手で鍋肌に塗り付け、左手で揚げあがった天ぷらを取り出す。紙に包んだアツアツの天ぷらを肴に、ビールを口にしながら、オヤジの寸分の隙も無いワザに見惚れる。商売繁盛。鍋から立ち上る油で黒光りしたオヤジの顔は、明るく輝いていた。
半世紀が過ぎた今になって思い起すのは、やはり当時の香港に沸き立っていた生きることに対するガムシャラな活力だ。あのエネルギーもまた、当時のクロフォード・マレー・マクレホース香港総督による「香港の黄金時代」を象徴していたようにも思える。《QED》