――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港124)

【知道中国 2242回】                       二一・六・仲九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港124)

 引っ越しといったところで人手は多く荷物は少ない。だからアッと言う間に終わり、1階の広東料理レストランで早目の昼飯となる。

排骨、鮮竹巻、牛百葉、腸粉、蘿卜?、馬来?、鹹魚飯、叉焼包などを飲茶の料理を前に生力?酒(サンミゲル・ビール)が進む。本来ならお礼をしなければならない身だが、この時も支払いは李さんではなかったか。

留学期間を含めに現在までの半世紀余を振り返って見ると、一貫して李さんのオゴリだったような。自慢にもならないが、この半世紀ほどでコチラが支払った回数は両手の指で数えてギリギリ。いやはや厚かましい限り。甚く反省し、内心忸怩たる思いに駆られはするが、やはり“慣れ”というものは空恐ろしいもの。いつも支払いは李さんだった。

部屋に戻ると、李さんは「何かあったら私に連絡を」とわざわざ大家に挨拶してくれた。

たしか林語堂に、「社会的経験からして中国人は実年齢より大人びている。だから『お若いですね』と言われるのを嫌う。『大人ですね』が誉め言葉だ」といった趣旨のエッセイがあったはず。李さんのみならず、黄さん、もう1人の黄さん、関さん、邱さん、梁さん、呉さん・・・誰もが同年輩のはずだが、たしかにズッと大人のような気がしたままだ。

 大家は60歳ほどか。真っ白の頭髪を短く刈り込んだ細身で中背だった。大分若い寡黙で働き者のカミさんとの間に小学校高学年の娘と低学年の息子。大家は何軒かの貸家から上がる家賃収入と株取引で生計を維持していた。

 当時の経済界は上海系と潮州系が押さえていたが、大家は潮州系。とはいえ大物であるわけがなかった。じつは当時は文蔚楼でお世話になったSさんから、「潮州語は野蛮な言葉だ。広東人が『潮州音楽』と口にしたら、それは『オマエの言ってることは皆目わからない』という侮蔑だ」と聞いていただけに、潮州語は気にも留めていなかった。

 ところが人生は不思議である。後に潮州系が主流を占めるタイの華僑・華人社会に興味を持ち、多くの潮州系タイ人と知り合うようなった。香港で、あの時、潮州語を真面目に習っておけばタイでの調査はもっとスムースに進んだろうに。後の祭りではあるが。

 大家で最も印象深いのがトイレだ。7時頃からトイレを2時間ほど占拠したまま。家族用のトイレは使わず、専ら下宿人のそれを使う。トイレで何をしているのか。じつはラジオと新聞と鉛筆を持ち込んでラジオの株式市況に耳を傾けながら、株の売買銘柄を思案しているのだ。当然のことだが真剣であり、この間はトイレのドアは固く締められたまま。

 一瞬のタイミングで先にトイレに入られると、こちらとしてはお手上げである。洗面も歯磨きも、ましてや用便も。そこで致し方なく、裏道を小走りで新亜研究所に向かうしかない。ヤレヤレ、ではあった。

四海保齢球場に向かって左側が梭椏道(SOARES AVE)で、そこに洗濯屋、肉屋、八百屋などが並んでいた。夕方、買い物客が集まる頃になると、どこからともなく肉や野菜を積んだトラックがやって来て、肉屋や八百屋の前で商売を始める。日本でなら「うちの店先で・・・」と喧嘩になるはずだが、平和共存状態で商売に励んでいるから不思議だ。

事の次第を尋ねると、大家は「不思議でもなんでもない。八百屋には野菜を求める客が、肉屋には肉が欲しい客が来る。だから客の求めに応ずるだけ。店が増えれば客も増えるのが道理だ。限られた客を取り合う訳ではない。これが互恵互利という商法だ」と。

トラック側は店舗にショバ代を払っているに違いないから、喧嘩にはならないだろう。相互扶助で互恵互利。また一つ日本の学校では教えてくれそうにない中国文化――商人としての生き方――を学んだ。勉強のタネはどこにでも転がっているらしい。改めて香港全体が庶民文化の生きた博物館、いやテーマパークだと気付かされた次第である。《QED》


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