――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港123)

【知道中国 2241回】                       二一・六・仲七

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港123)

香港でなければ出会うこともなかったに違いない田中さんとの一件があった少し前のことだったと思うが、住み慣れた文蔚楼24階の下宿を引き払うこととなった。それというのも同室のTさんが新亜書院を卒業し就職することになったからだ。

日本風にいうなら4畳半ほどの部屋に机が1つに鉄パイプ製2段ベット。下段がTさんで、上段が我が居所。1か月300ドル(当時は1HKドルが60円ほど)の家賃を2人の“専有面積”の割合で分担していたから、Tさんが抜けたら1人で払うことになる。それに大家のSさんは価格調整、つまり値上げをしたいらしい。費用対効果に加え同じ場所に長く住み続けるのも芸がなさすぎる。そこで思い切ってSさん宅を出ることにした。

中国語個人教授の甘先生に相談すると、早速、知り合いの不動産屋を紹介してくれた。

数日後、その不動産屋に連れられ物件を見て回った。

最初に案内されたのが、九龍(割譲地)と新界(租借地)を限る界限街(BOUNDARY St.)の外側、つまり新界側で、九広鉄道が界限街を跨ぐガード近くの旧い4階建ての洋館の2階、いや3階であったか。旧いだけあって内装も“コロニアル風”で雰囲気は良かったが、なにせ水回りが悪い。つまり大家一家がダラシナイ。それに家賃が高すぎた。

次に案内されたのが尖沙咀の漢口道の旧いビルだった。何階だったか記憶はないが、不動産屋は、「繁華街に近いし、そのうえ家賃はバツグンに安い。掘り出しモンだ」と。

その部屋に入って驚いた。錆びついた鉄パイプ製ベットに小さな机が1つ。やけに暗い。

暗いはずである。壁に40�ほどの小さな窓が1つあるのみ。そのうえ、日光が射し込まないから部屋の空気がカビ臭くジメジメと澱んでいる。これでは冗談でなく酸欠状態になりかねない。ブチ込まれた経験はないが、日本の拘置所の方がマシだろう。家賃は確かに安かったが、香港までやって来て、こんな酷い環境で生活することもないだろうに。

こちらの不満気な顔を見たからだろう。不動産屋は「ならば少し高いが次に行こう」。

向かった先が窩打老道(WATERLOO Rd.)に面した小奇麗なビル。名前は「冠華園大廈」だったような。一階には広東料理のレストランと香港上海匯豊銀行の支店があり、道路を挟んだ向かいに四海保齢球(ボーリング)場があった。

20階より上の高層階だったように記憶しているが、エレベーターを降りると気のよさそうな大家が迎えてくれた。ドアを開けると、そこが10畳ほどの広さのリビング。陽射しがいっぱい差し込み、部屋全体を明るくする左側の大きな窓の向こうには、閑静な住宅地で知られた何文田地区の高級マンションが望める。右手が台所に大家一家の住む部屋、リビングの角が短い廊下で、その左右に4畳半ほどの部屋。左手前角にバス・トイレ。

どちらの部屋も空いているとのことだが、やはり右手の部屋の方がいい。鉄パイプ製ベットが置かれていたが、これが新しい。そのうえ窩打老道側に向いた広い窓からの眺めがバツグンだった。視界に高層ビルは見当たらず、大帽山に続く新界の山並みが見えた。不動産屋の言う通り「これ以上の好物件はザラにはない」。だが、ネックは家賃だ。 

やはり高い。だがモノは考えようだ。子供たちに教える時間も増えたし、生活全般をさらに節約すれば払えない金額ではない。裏道を使えば新亜研究所まで歩いて行けるから交通費が浮く。それに下町の繁華街でもあった旺角地区にも近い。同地区の山東街や洗衣街には馴染の古本屋が店を構え、歩道には屋台が軒を並べB、C級グルメのテーマパーク然とした街並みだ。それに格安の映画館も。“総合的・俯瞰的”に考えるなら、ここしかない。

引っ越しは、李さんや黄さん、それに梁さんなど第一日文の学生が手伝ってくれた。2つ折りにして丸めた中国式の薄い布団、それに李さんが調達してくれた小さなタンスに折り畳みの書棚に机などを黄さん運転のトラックに積み、住み慣れた文蔚楼を後にした。《QED》


投稿日

カテゴリー:

投稿者: