――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港117)

【知道中国 2235回】                       二一・五・念三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港117)

半世紀が過ぎた今になって記憶の中の茘園での日々をしみじみと辿ってみるに、茘園という空間の“醍醐味”は創意工夫で超自己チュウであったように思えてくる。これを毛沢東風に言い換えるなら「自力更生」ではあるが、ゼッタイに「為人民服務」ではない。断固として「為自己服務」であり、そのための「自力更生」であった。

こう考えてみると九龍城もそうだろうし、ましてや九龍城をガーッと拡げたような香港だって、そんな雰囲気の中で殖民地としての時を過ごしてきたとしか考えられない。

秩序と無秩序、秩序の中の無秩序、無秩序の中の秩序、無秩序の中の無秩序・・・・そこに当時の香港社会の日常の裏側に潜む庶民の生存原理――支配されながら支配する――が秘められているようにも思える、とは大袈裟が過ぎるだろうか。

京都帝国大学で「支那学」を修めた青木正児は、中国共産党が上海フランス租界で設立されたとされる1921年の翌年に当たる大正11年、江南の旅に向かった。長江下流域に広がる水郷の旅情を収めた『江南春』(平凡社 昭和47年)で、こう呟く。

 「上古北から南へ発展してきた漢族が、自衛のため自然の威力に対抗して持続して来た努力、即ち生の執着は現実的実効的の儒教思想となり、その抗すべからざるを知って服従した生の諦めは、虚無恬淡の老荘的思想となったのであろう。彼らの慾ぼけたかけ引き、ゆすり、それらはすべて『儒』禍である。諦めの良い恬淡さは『道』福である」。

 この青木の考えを敷衍してみると、

黄河中流域の中原と呼ばれる黄土高原を民族の故郷と誇る漢族は、やがて東に向かい、南に進んで自らの生存空間を拡大してきた。先住異民族と闘い、過酷な自然の脅威にさらされながらも生き抜く。こういった日々の暮らしの中から身につけた一方の知恵の柱が、団結と秩序を固く重んじる儒教思想であり、団結と秩序が自らを守り相互扶助を導く。

だが獰猛無比な他民族、過酷な自然、有為転変の時代の激浪を前にしては、団結も秩序も粉々に砕け散る。人間なんて、どう足掻こうが所詮は無力。そこで、もう一方の知恵の柱である老荘思想の出番となり諦めが説かれる。団結と秩序への盲従、つまり誰もが大勢に唯々諾々と迎合する姿が「儒」禍で、人の力ではどうにも動かしようのない自然や時の流れをそのまま受け入れることで自らを納得させる様が「道」福ではなかろうか。

青木の興味深い考えは続く。

「韮菜と蒜とは、利己主義にして楽天的な中国人の国民性を最もよく表わせる食物」であり、「己れこれを食えば香ばしくて旨くてたまらず、己れ食わずして人の食いたる側に居れば鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にしていてはこの美味は享楽し得られず。人より臭い息を吹きかけられても『没法子』(仕方がない)なり。されば人も食い我も食えば『彼此彼此』(お互い様)何の事もなくて済む、これこれを利己的妥協主義とは謂うなり」。 

また中国芸術を指しても、「まさに韮のようなものだ。一たびその味わいを滄服したならば何とも云い知らぬ妙味を覚える」とも説いている。(なお、原文では滄は「さんずい」ではなく「にすい」)

 青木の考えを頭の片隅に茘園を振り返る。どの出し物も「香ばしくて旨くてたまらず」「何とも云い知らぬ妙味を覚える」。だが、客は身勝手千万で「鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にしていてはこの美味は享楽し得られず」。かくて誰もが我先に楽しみまくる。他人は関係ない。イケイケドンドンの一直線。これが「儒」禍。だがスッカラカンになったところで、とどのつまりは諦めれば済むだけのこと。これが「道」福となる。

どうやら茘園は、「儒」禍と「道」福に包まれた利己的妥協主義のテーマパークだったのでは。ならば九龍城も、はたまた香港も・・・「儒」禍と「道」福の「無間道」。《QED》


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