――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習83)

【知道中国 2417回】                       二二・九・初五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習83)

なにが「害毒」で、内容をどのように「徹底して粛清した」のか。その辺りが判然としない。だが、なにがなんでも劉少奇を「害毒」を流した極悪人に仕立てる必要があった。

たとえば「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」は、次のように解説されている。

――「資本主義国家の医学の“権威”は、火傷の面積が体の表面積の85%を超えた場合、死亡率は100%だと結論づける」。だが、「1958年に毛主席が定めた『意欲を奮い立たせ、先頭に立つよう努め、より多く、より早く、より立派に、より倹約して社会主義を建設せよ』との耀ける総路線の下、工農業生産の大躍進の高まりに鼓舞され、我が国の医学関係者は迷信を打破し、大胆に実践し、80%以上の火傷患者を救うことに成功した。

偉大なる文化大革命に際し〔中略〕99%の火傷を負った患者、さらには3度の火傷で94%という広い面積の火傷を負った患者を治癒することに成功し、資本主義国家の“権威”の定説と文献上の記載を完全に乗り越え、世界医学界における奇跡を創造」した――

へ~ッそんなものかと思うばかりではあるが、「99%の火傷を負った患者」を毛沢東思想で治癒できるものかどうか。医療や思想の専門家に問い質すまでもなく、それは不可能だろうし、荒唐無稽なホラ話としか思えない。

だが、その荒唐無稽なホラ話が中国全土で老若男女によって固く信じられ、大いに称えていた時代があったことを、やはり強く記憶に留めておくべきだ。たとえ、それが文革と言う疾風怒濤の時代を生きる残るための偽装や方便であったとしても、である。習近平世代は、そのような時代に青春を送ったことも忘れはならない。

ロシア10月革命における列寧(レーニン)の功績を描いた連環画『列寧在十月』は、「1971年7月7日、フィンランドを出発した国際列車第75便は国境を越えてロシア領内に入った。深い夜霧のなかを、ロシアの首都・ペトログラードに向かって夜汽車は驀進する」との感動的なシーンからはじまる。もちろん「国際列車第75便」に収まっているのはウラジミール・イリイチ・レーニンである。

 「ロシアの2月革命はツアー政府を倒したが、政権はブルジョワ階級に簒奪されてしまう。全ての政権をソビエトに。ボルシェビキ党は武装蜂起を準備し、武力によってブルジョワ政権を打倒しソビエト政権を打ち立てることを決定した」。そして、「この決定的に重要な時期に、偉大なるレーニンは革命の全面的計画を胸に納め、秘密裏にペトログラードに戻ったのである」。

 労働者の英雄的支援を得て、白色テロの暴力を撥ね退け潜り抜けて秘密のアジトに辿りついたレーニンは、「『直ちに武装蜂起を』と提案をすべく、翌日にスターリンと会談する。白熱の議論は4時間。レーニンは、彼の指示に基づいて詳細に計画された武装蜂起に関するスターリンの報告を承諾する。両者の話し合いは終わる。別れ際、レーニンはスターリンの手を握る」。もちろん「成功を祈る」であった。

 「10月10日、ペテログラードのある住宅内で、ボルシェビキ党中央委員会は極めて重大な歴史的意義を持つ会議を開催する」。紆余曲折を経た最後の土壇場で、レーニンは「武装蜂起を避けることはできるはずもない。いまや機は熟した。中央委員会は党の各組織に対しこの考えを方針とし、併せてこの一点から出発して討論し一切の実際の問題を解決するよう提案する」と獅子吼する。この「レーニンの考えは、スターリンら大多数の中央委員の支持を得た」。

 このような劇的場面を重ねた末に、毛沢東が「我われにマルクス・レーニン主義を贈り届けてくれた」と称える「十月革命の砲声」が鳴り響くのであった。《QED》


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