――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習63)
大陸の、酷くコマチャックレの、大人のように政治的に振る舞うガキである「毛主席のよい子」が描く文革応援歌のような絵が、香港に人々の心を打ったとはとても思えない。
『陶鋳是無産階級専政的死敵(陶鋳はプロレタリア独裁にとっての不倶戴天の敵)』とは物騒な書名だが、文革派から「死敵」と糾弾された陶鋳(1908~69年)は党中央華南分局代理書記、広東省長、広東省党委員会第一書記、広州軍区第一政治委員、広東省軍区第一政治委員などを歴任し、文革前には広東省を拠点に中国南部に強い影響力を発揮していた。
文革直前に党指導部入りしたが、劉少奇や鄧小平らの「実権派」に対する批判に消極的であったゆえに、江青、陳伯達ら毛沢東側近からだけではなく、毛沢東に煽られた紅衛兵からも猛烈な攻撃を受け、67年8月以降は中南海に監禁されてしまった。
69年3月には癌治療のため入院。10月には北京から強制退去処分を受け、身を寄せた安徽省合肥で死去。四人組が失脚し、鄧小平の大号令によって共産党政権が対外開放路線に転換した78年12月に名誉回復している。
『陶鋳是無産階級専政的死敵』は、『人民日報』(1967年9月10日)に掲載された「炮轟陶鋳(陶鋳を砲撃せよ)」と題する論文を筆頭に、「老獪な機会主義者・陶鋳の面の皮を引っ剥がす」「極“左”の偽装では隠しおおせない極右の本質」「修正主義を進める陶鋳を徹底して清算せよ」「陶鋳の反革命修正主義文芸綱領を徹底して粉砕せよ」など『人民日報』に連日掲載された論文で構成されている。
毛沢東やレーニンなどの片言隻語を引用し権威付けながらの文章が続くが、いずれも批判のための批判でしかない。つまりはイチャモンなのだ。その意味からして、『陶鋳是無産階級専政的死敵』は難癖に貫かれた典型的な文革言語の“詰合わせ”でもある。
ところで「炮轟陶鋳」の一文は「上海時代中学革命小将陸栄根同志遺作」とされているが、かりに「陸栄根同志」が実在の中学生であったとするなら、毛沢東の発言を素直に妄信しまった跳ねっ返りの紅衛兵と考えても当たらずとも遠からじ、だろう。
ここで振り返ると、あるいは『陶鋳是無産階級専政的死敵』は香港左派が起こした香港暴動(67年5月~同年10月)と無関係というわけでもなさそう・・・だが。
香港暴動に関して第2141回(20.10.02)と第2142回(20.10.04)でやや詳しく記しておいたので、ここで簡単に記すに止めるが、暴動を引き起こした香港左派勢力の背後に陶鑄や共産党広東省委第一書記(当時)であった趙紫陽が控えていて、香港で暴動を起こすことで北京における文革派の動きを牽制し、あわよくば劉少奇派を側面支援しようと画策したのではないか、という見立てである。
この見方が正しいとするなら、『陶鋳是無産階級専政的死敵』は香港における陶鋳派潰しを狙っていたとも考えられる。ここからも、北京の権力闘争の帰趨が香港政治の動向に微妙に絡んでいることが見て取れるはず。じつは香港の政治は香港だけでは解決しないのだ。
ここで共産党政治の一端を知る上からも、同じ1967年に香港で出版された『鬥争十八年』(司馬璐 自聯出版社)を紹介しておきたい。じつは同書は第302回(09・11・05)で扱っているが、主要な部分を紹介しておくのも一興だと考える。
「徳莫克拉西(デモクラシー)」も「賽因斯(サイエンス)」もないゆえに、中国は外国勢力のなすがままに亡国への道をつき進むしかない。諸悪の根源は孔子学説にあると糾弾した「五・四運動」が起こった1919年、司馬璐は江蘇省北部で生まれた。
そこは地味豊かな農村だが、なぜか農民は悲惨な生活を強いられるばかり。
貧しく不器用な父親は軍閥に徴発され、混乱の中であらぬ疑いをかけられ銃殺され、一家を支えた母親も著者が13歳の時に「窮死」してしまう。悲惨の極みである。《QED》