――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習115)

【知道中国 2449回】                      二二・十一・仲七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習115)

1971年購入分を数えてみたら、あと4冊が残っていた・・・ヤレヤレでトホホ、である。

先ず『跟随毛主席長征』(香港朝陽出版社)だが、1915年秋に江西省の貧農家庭にオギャーと生まれた瞬間から「ヒトを喰らう搾取階級への恨み」を抱くことを運命づけられて育った陳昌奉の回想録だ。

15歳で中国工農紅軍第四軍にラッパ兵として入隊したが、上官からの命令で毛沢東の身の回りの世話係に。以来、長征の全行程も含め1946年に延安を離れ他の部署に異動するまで毛沢東の身辺で働いた日々が、分かり易い文体で詳細に、ほのぼのと綴られている。

毛沢東を“無私の聖人”と捉える少年にとって、貧しい者・虐げられた者に向けられる慈悲の眼差しは神々しくも感じられたのである。純朴な農村少年の目を通した、過度の政治宣伝臭を押さえた巧妙な政治宣伝だ。やはり宣伝は教育であることを痛感させられる。

次の『為人民献身最光栄』(人民出版社)は『跟随毛主席長征』とは異なり、行間から伝わるのは「偉大なる領袖」の毛沢東であり、文革式政治宣伝の典型と言えるだろう。 

 1971年7月4日、『人民日報』は「偉大なる領袖毛主席と彼の親密なる戦友である林副主席が中央軍事委員会に対し、盛習友同志に『愛民模範』の光栄ある称号を授与することを自ら親しく命じた」と大々的に報じ、『解放軍報』は「党と人民の利益は何事にも勝る」という表題の「《解放軍報》評論員」の論文を掲載している。

当時、共産党を代表する公式メディアである『人民日報』『解放軍報』の2紙に論文誌『紅旗』が報じた「盛習友同志」に関する論文や盛の日記の抜粋を集めて『為人民献身最光栄』を編んだわけだから、共産党の「盛習友同志」に対する入れ込みようは尋常ではなかった。

盛習友は貧困家庭に生まれながら“光栄ある人民解放軍”に入隊し、「毛主席と林副主席の尊い教え」を一心不乱に学び、刻苦勉励・不惜身命の日々を送った。その生前の姿を回顧し、短くも光栄に満ちた人生を顕彰することで、人民に「愛民模範」の姿を学習させようという狙いである。

軍務の途中、激流に呑み込まれようとした9人の女性農民を、自らの命を顧みることなく救ったらしいが、残された彼の日記の「全身全霊で毛主席を慕い、心の底から毛主席のために働き、全身を賭して毛主席に従い、全人生を毛主席守護のために捧げる」などという健気極まりないような記述を読まされると、これはもう狂信的カルトというしかない。

 実際、「為人民服務」に貫かれた盛習友の人生が、どれほどの教育効果を挙げたのか疑問だが、そんなことはどうでもよいこと。ここで興味を持たざるを得ないのが、『為人民献身最光栄』が出版された前後の「偉大なる領袖」と「親密なる戦友」の関係だろう。

 ここで繰り返しになるようだが、敢えて当時の両者の関係を追い掛けてみることとする。

毛沢東が「勝利の大会」と内外に向かって誇示した69年4月の第9回共産党大会で、林彪は党章(規約)に「毛沢東同志の親密なる戦友」と正式に書き込まれ、名実共に毛沢東の後継者としての地位を確保したはずだった。

だが、70年に入るや2人の間に波風が立ちだす。毛沢東が国家主席廃止の方針を説くや、林彪は毛の国家主席兼務を主張すると共に、「世界で数百年に1人、中国で数千年に1人しか生まれない天才」と言い始め、毛沢東天才論を口にする。挙句の果てに毛沢東天才論を否定する勢力こそ打倒すべきだ、とまで言いだす始末。これには流石の毛沢東も首を傾げる。「油断していると寝首を掻かれかねない」と、林彪の下心を疑い始めたに違いない。大患は忠に似たり、と。露骨が過ぎると疑われる。やはり過ぎたるは何とやら、であった。

70年8月には、北京の権力中枢は毛沢東天才論と国家主席廃止を挟んで毛沢東派と林彪派に2分され、「回帰不能点」を超えた。芸術、いや権力闘争はバクハツだ~ッ!《QED》


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