――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習51)

【知道中国 2385回】                       二二・六・念七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習51)

病弱な戦友の江戦雲の手を引きながら、一方で木を掴み峻険な山道をよじ登る。部隊は、まるで一振りの宝剣のように一直線になって大雪山の頂を目指す。すると突然の強風に次いで横殴りの猛烈な雪だ。忽ち周囲は真っ白になり、なにも見えない。于魯紅の耳に「団結だ、戦闘だ、隊列から落伍するな」との部隊長の叱咤激励が届く。勇気を振るい起こし、戦友・江戦雲の手を引いて雪中行軍が続く。

 山が高くなれば雪も深くなる。だが、部隊全員は「堅固な革命的毅力」を発揮し前進する。山頂に辿り着いた先行部隊から「頑張れ、同志諸君」の声。于魯紅は「ガンバレ、大雪山に勝つんだ。大雪山と言ったところで紅軍兵士に敵いっこない」と、江戦雲を励ます。

 やっと辿りついた頂上では暴風が渦を巻き、鶏の卵大の雹が兵士たちに襲いかかる。かくて前進も後退もできず、本隊から逸れて吹雪の中に立ち尽くすしかなかった。

悪戦苦闘しながら雪道を前進していると、近くを通りかかった別の部隊の隊長の「号手がみつからず、我が部隊の所在地点連絡不能」との声を耳にした于魯紅は、雪の中から力を振り絞り「同志、ボ、ボクは・・・」

 その声を耳にした部隊長がやってきて、体全体を雪に埋めた于魯紅を見つけ出す。健気にもラッパを雪の上に突き出していたのだ。寒さで唇は割れてしまっていたが、于魯紅は部隊長の命令を受け、力の限りラッパを吹き鳴らす。

轟々と唸りをあげる吹雪をものともせず吹き鳴らされるラッパの音は、「部隊長は山頂に到達せり。諸君の現在地を伝達あれ」の信号を全山に伝える。かくて多くの兵士が部隊長に合流すべく山頂を目指すのであった。

 突然ラッパの音が途切れる。精も魂も尽き果てた于魯紅が気を失ってしまったのだ。「小同志、しっかりしろ」。部隊長の腕の中で気がついたボクは「隊長、戦友の江クンが・・・」と。もちろん江戦雲は救出される。

 この時、于魯紅の直属部隊長が山頂に戻って来た。逸れた部下を探すためだ。「貴下の部隊の小号手の格段の軍功により、我が部隊は勝利のうちに大雪山越えを達成せり。感謝の意を表す」。それを聞いた于魯紅の直属部隊長は力強く、「我らが毛主席の英明なる指導の下、抗日の前線に赴き、共に侵略者を打ち破ろう」と応ずるのであった。

 この年、習近平少年は12歳。同世代の于魯紅の大人顔負けの獅子奮迅の活躍に心躍らせなかっただろうか。あるいは心密かに「我らが毛主席の英明なる指導の下、抗日の前線に赴き、共に侵略者を打ち破ろう」と誓うことはなかっただろうか。

 于魯紅はフィクションのなかの少年兵だが、『王杰日記』(解放軍報編輯部編 人民出版社)を記した王杰は紛れもなく実在の若き解放軍兵士だ。

王杰(1942年~65年)は山東省出身の解放軍兵士。入隊は61年で済南部隊装甲兵工兵連(中隊)班長。62年、共産主義青年団に加入。65年7月、民兵訓練中に爆弾が暴発しようとした際、現場にいた12人全員を救うべく爆弾に覆いかぶさり爆死。自己犠牲の模範として全国的に讃えられ、死後に党員として追認されている。

遺品の中から63年から書き継がれた日記がみつかる。10万字を超える日記には、徹頭徹尾に「毛沢東の忠良な戦士」を目指した日々が綴られていたとのことだ。

早速、共産党官製メディアの中核の『人民日報』と『解放軍報』が「一に苦を、二に死を恐れず  ――王杰同志の一心を革命のために捧げた崇高な精神を学習せよ」(65年11月8日)、「一心を革命のため、一切を革命のため  ――毛主席の優れた兵士の王杰同志に学ぶ」(65年11月8日)、「『毛主席がこう仰るなら、私はそうします』 ――再び王杰同志を論ずる」(65年11月10日)など、社説で彼を大々的に称えることになった。《QED》


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