――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習155)

【知道中国 2489回】                      二三・二・仲四

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習155)

「金色昔日」が描き出す中国の“逆さま現代史”から、なにが読み取れるのか。そこに現在の中国のSF作家の抱く政治的意図が埋め込まれているようにも思える。

だが、『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』を編んだケン・リュウは、「中国の政治と西側の不安定な関係を考慮すると、中国SFと出会う西側の読者にとって、中国の政治に関する西側の夢や希望やおとぎ話でできたレンズを通して見ようとするのは自然なことです。西側寄りの感覚で“政府転覆”を解釈上の支えにするかもしれません」。だが、「そのような誘惑に抵抗していただきたいのです。中国の作家の政治的関心が西側の読者の期待するものとおなじだと想像するのは、よく言って傲慢であり、悪く言えば危険なのです」と、西側の読者に注意を喚起する。

彼は、「中国の作家たちは、地球について、たんに中国だけではなく人類全体について言葉を発しており、その観点から彼らの作品を理解しようとするのがはるかに実りの多いアプローチ」と、西側の「よく言って傲慢であり、悪く言えば危険な」見方にグギを刺す。

ここに示した彼の考えに納得するかどうか。それは別として、『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』の作品を読み進んでいるうちに、2つの疑問が湧いた。最初に浮かんだのは言葉によって形作られる世界に就いてであり、次が毛沢東の政治に関して、である。

どの作品も分かり易い日本語に訳されているのだが、読み進むに従って、中国語から日本語への翻訳では、このような文体や言い回しになるはずがなかろうと、フト感じた。そこで、これは英語からの翻訳だろうと見立てたのだが、やはり日本語への翻訳は編者のケン・リュウの英訳からであり、なかには作家自身が英訳した作品も含まれていた。

つまり『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』は中国語から英語への翻訳を経て、さらに日本語に訳すという手続きが取られているのだ。ここで考えられるのが中国語の原文を英語に翻訳する際に、おそらく中国語の描く世界を英語文化で解釈し直すという作業(工程)が加えられているはず。だから訳された英語を日本語に翻訳する際に、英語で理解した中国語の世界を日本語で再解釈するという作業(工程)を経たことだろう。

つまり中国語から英語を経て日本語に変換された訳文と、中国語から直接的に日本語に訳された訳文とでは、自ずから違うはず。2つの翻訳工程を敷衍して考えるなら、日本人が中国を理解するに当たって、直に中国に接する場合と、欧米の中国観を基盤にした中国理解を経由した場合とでは、描き出される中国像にズレが生じることにならないか。

いわば同じ中国像であっても日本人のそれ、欧米人のそれ、欧米の理解を経て日本人が受け取ったそれ、中国人のそれとでは違っているだろう。いや違っていて当たり前か。その当たり前なことに無神経、あるいは無自覚であることが誤解を誘発するに違いない。

かくてケン・リュウは「中国に関する知識が西側メディアの記事や、旅行者あるいは駐在員としての経験に限られている場合に、中国を“理解している”と主張するのは、ストローを覗いて不明瞭な一部分をかいま見た人間が、豹がどんなものかを知っていると主張するようなものです」と綴り、「中国で生み出されるフィクションは、中国の環境の複雑さを反映しています」と閉じた。たしかにケン・リュウの発言には一理も二理もある。

次が毛沢東の政治とSFの関係だが、ケン・リュウがクギを刺すように、現在の中国人SF作家が生み出す作品の背後に、「中国の政治に関する西側の夢や希望やおとぎ話」を想い描くことは禁句、あるいは無意味かもしれない。だが『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』に収められている「金色昔日」などの作品を読み進みながら浮かんでくるのは、はたして毛沢東の生涯は自らが脳裏に描き、温め続けた“毛沢東思想的SF世界”を中国の大地に実現させることに費やされてきたのではなかったか――こんな疑問であった。《QED》


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