――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習145)

【知道中国 2479回】                      二三・一・念三

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習145)

「マルクス主義の3本柱の1本」を構成する「政治経済学を学んでみるべきであると、偉大なる領袖の毛主席は何回となく我われを教え諭している」。だが、それは「経済部門を担当する同志に対してだけでなく、多数の共産党員と革命幹部、わけても党の責任ある立場に身を置く幹部に対してである」。それというのも、「政治経済学は階級闘争の科学であり、マルクス主義政治経済学がプロレタリア階級に奉仕することを満天下に明らかにしている」からである。

――このような方針に基づき、文革時に“紙の爆弾の兵器工廠”としてフル稼働した上海人民出版社から『学点政治経済学』(上海人民出版社 11月)が出版された。

 冒頭から「マルクス主義政治経済学は生産関係を研究する科学であり、生産関係は社会その他の一切の関係を決定する基本的な関係である。生産関係を研究するということは、とりもなおさず生産関係と生産力との間の、上部構造と下部構造との間の矛盾を研究し、人類社会が発展するための客観的法則性を研究することにほかならない」と説き起こす。

当時の共産党最高理論雑誌『紅旗』に連続掲載の論文などを軸に編まれていることから判断して、『学点政治経済学』の主張が当時の共産党の公式見解と見て間違いないはずだ。

 『学点政治経済学』は毛沢東の『実践論』に基づいて、「生産活動は社会における物質的な富を創造し、人類生存のための物質的条件を提供し、同時に精神的な豊かさの源泉でもある。労働者による生産活動がなかったら人類の生存は不可能であり、社会が発展するわけもない」と主張する。

人々が自然界に手を加え物質的な富を創造する力を生産力とし、生産力はヒトとモノ(=生産するための機器と原材料)の2つの要素から成り立ち、生産力においては生産機器が最も重要な要素となるものの、生産力において生産機器は必ずしも決定的要素ではない。

それというのも毛沢東が『実践論』で説いているように「決定的要素はヒトであり、モノではない。機器はヒトによって使われ、ヒトを通しモノを創造し、ヒトを経てこそ革新があるという考えに立つから」、である。以下、一連の主張を大胆に要約してみた。

 ――生産のための機器と原材料を不当にも資本家が独占する資本主義体制に革命を起こしてこそ、社会の変革が可能となり、生産関係に本来の姿が取り戻される。資本主義社会の根幹をなす商品にこそ資本主義の一切の矛盾が内包されていて、資本家とは労働者を搾取する存在でしかない。だから、悪辣残酷な手段で労働者を責め苛む資本家の心は腹黒い。

経済的危機は資本主義制度が必然的に招き寄せる“不治の病理”であり、であればこそ不況は回を重ねるごとに深刻化し、資本主義の矛盾は先鋭化を免れない。帝国主義は資本主義の成れの果てであり、生産力の一角を形成するモノを国家の公有とし、闘争の中で社会主義公有制を固め発展させる必要がある。

つまり社会主義社会であればこそ、はじめて計画経済の実行が可能となり、客観的規律に基づいて計画を策定し、農業を起点にしてこそ国民経済の発展が達成される。こうして「各尽所能、按労分配(各々が能う所を尽くし、労に按づき分配する)」の社会主義が実現し、その先にこそ名も利も求めず、苦しみも厭わず死も恐れず、全身全霊を人民に尽くす人類理想の共産主義社会が実現する――

『学点政治経済学』は最後に資本主義社会の姿を「見銭眼開、唯利是図(ゼニを見たらニコリと笑い、カネ儲けしか眼中にない)」の8文字で表現し揶揄している。だが、この8文字は現在の中国社会の一面を表現してもいるはずだ。ならば彼の国は正真正銘の資本主義・・・嗚呼、革命未だ成就せず。だからこそ“毛沢東の申し子”である習近平が「全国各族人民」にヤキを入れようとしている。コロナへの対応もその一環・・・なのか。《QED》


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