――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(4)田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

【知道中国 1967回】                       一九・十・初八

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(4)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

田川の関心は、やはり内地からの官吏の振る舞い、それに一般人の生活ぶりに注がれる。

「臺灣人、殊にその農民の、生活振りの、甚だ勤勉、儉素なことである、これは何人の眼にも着いて居る、現に内地人も、齊しく、かく申して居られる、そこで、その勤勉な、儉素な臺灣人農民の側から見ると、内地人の生活振は、兎角、遊惰に見え、又贅澤に見える傾きがある」。

たとえば内地人の家屋だが、「總て檜造りの、宏壮な、華麗なもの、要するに分不相應なものとして、彼等は、これを非難してゐます」。台湾人からするならば、「吾々の粒々辛苦の餘膏を絞つての事業であり」、本来なら「我等の生活状態をも顧念して下さらねばならない」にもかかわらず、である。台湾人の生活に思いを致さずに「遊惰」「贅澤」だったのか。

田川は「臺灣の總ての官吏、總ての内地人に對して、この批評と非難を聞きました」と綴り、「臺灣當局者の、深く考慮し、戒愼せらるべき、重大の影響のある、一觀察だ」と続けた。

「臺灣の經營には、種々の省察、刷新、革新を必要とし」、問題は山積している。「臺灣人の順良な性質、平和の氣分に就ては、毛頭も疑」うことのない田川だが、「臺灣治政の將來に就ては、積極消極、種々の疑問に包まれ」るのであった。

田川は台湾在住9年の内地人に、総督は何人替ったのかと尋ねると、「安東大將に、明石大將に田總督に、内田總督に、伊澤總督」と5人の名を挙げた。9年の短期間で5人とは、「人民の安心し得ない筈です」。ここからも「臺灣統治の内容が分り、日本の政治家の、不用意の方針が分り、その缺點、短所が分ると思う」。

やはり「大國を治むるは、細鮮を煮るが如し、しばしば、突つつき廻し、こねくり返しては、なりません、じつと、落ち着いた、重厚、沈着の態度を要します」。「日本人の、性急、せつかち」を排すべきだ。総督の「一二年更代主義」は「民を惱ますもので」あり、「民を治むるもので」はないから、即刻改めるなければならない、と説く。

安東、明石、田、内田の4人の総督は「自治政を臺灣に與へた、臺灣の民は幸福である、と、誇つて居る」。だが、いったい「どこに、その自治があるか、どこに、その幸福があるか」。彼らは「その名を與へて、その實を與へない」ばかりか、「臺灣人にも、人材登用の途を開き、内地人との間に、區別を設けず、相當の高地にも任用し得させる」と表明したが、実は台湾人で「その高地に用ゐられた者が、いく人ありますか、未だ有りません」。かくて「巧言令色、一時を欺く者です、永久に民心を服せしむ所以ではありません」となる。

田川の眼からすれば、1902年に在ロシア日本国公使館付き陸軍武官に着任して後、ロシア反体制派への支援を通じロシア国内に対日戦争厭戦気分を醸成させ、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世をして「満洲の日本軍20万人に匹敵する戦果を挙げた」と言わしめた明石元次郎大将も、どうやら「巧言令色、一時を欺く」総督の1人だったことになる。

田川は「到る先き先きで、租税が重いといふ、嘆きの聲、惱みの訴へを聽」いた。調べてみると重いことは重いかもしれないが、台湾経営には必要な額だ。税金というものに対する「歷史的敎教、訓練を經ない、この民の間に」重税感があることは「必ずしも無理ではありますまい」。問題は「官廳そのものゝ態度」にある。

台湾は「物産は豐富である、何も、かも、廉い、臺灣に生活する者は、内地の生活に較べて、何割か、割安に、暮せませう」。にもかかわらず内地に較べ官吏の俸給は高い。それというのも「誰しも内地の勤務を希ふて、臺灣、朝鮮等、所謂植民地の勤務を嫌がるからでせう」。では、なぜ「臺灣、朝鮮等、所謂植民地の勤務を嫌がる」のだろうか。《QED》


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