――「支那人は巨人の巨腕に抱き込まるゝを厭はずして・・・」――中野(10)
中野正剛『我が觀たる滿鮮』(政敎社 大正四年)
中野は「鐵道に沿ひて我國の勢力の延長せる最北端」に位置する長春において、「量見の小さき治者」の管理・規制・指導をものともしない「帝國住民の最も活氣を呈せる」姿に接し、「吾は愉快に堪へざる所」と綴る。
「量見の小さき治者」の筆頭ともいえる満鉄は、「全く附屬地の總地主として獨裁的專制を人民の上に行」い、満鉄に盾突くようなことがあったら直ぐにでも土地を取り上げてしまう。「去れば人民が安んじて永住の計畫を立てんなどゝは思ひもよらず」。満鉄のような大会社が、こんな姑息な対応を執るべきではない。だが「滿鐵の經理課は、斯くして、些細の事にまで立入りて其収入を多からしめんとし、種々の非難を受けながら毫も改むるの意なきものゝ如し」。「量見の小さき治者」が目前の“業績アップ”に汲々とする結果、国民の活力は殺がれ国益は毀損されてしまうのだが、その責任が問われることはない。
「量見の小さき治者」を詰る一方で、中野は「活氣を呈せる」「帝國住民」の歓待を楽しみ、その席上で見聞きしたことを記す。
長春には「意氣甚だ豪壮な」る人々の組織した長春倶楽部と名づけられた社交機関があり、「住民は一致して内外の困難に當る」ことを目的とする。「外」とは「固より或は支那人、或は其の他の外國人に對する實業の競爭」だが、「内」は「彼等の地主たり、專制家たり、代表者たる滿鐵、都督府、領事館なり」。かくて中野は「覺えず失笑」せざるをえず。
「一人の快活漢」が「傍らに侍する紅裙連を捉へて」、「世人は此徒を卑めども、凡そ日本國中に於て最も勇氣ある者は此輩なり、北滿といはず、西伯利亞といはず、日本人の海外發展に最先鋒たる者は彼等なり。商人は彼等の腰巻を擔ぎて後へに隨ふ。是れ比喩の言に非ず、實際に然るなり此徒女流の進む所、必ず其腰に纏ひ、肩に掛くべき日本産の縮緬の類を要す、意氣地なき日本商人は此種の貨物を擔ぎて、彼等より澪れ錢を得んとするに過ぎず。彼等は國辱を晒すと稱せらるれども、余の見る所も以てすれば、彼等ほど恥を知るを重んずる者は有らざるなり」と、「盛んに彼等の爲めに気焰を吐」いたという。
これを聞いて中野は「彼等」、つまり彼女たちの苦労と心意気を知ればこそ、「日本民族發展の爲め、男子が活動するに何の難き所ぞ」と言い切った。
古今東西を問わず、海外進出の先兵は「紅裙連」だろう。その尻を追っかけ彼女らに寄生する牛太郎やらやり手婆の類が続き、小商人が群がり紅灯の巷から嬌声が聞こえるようになると、本国から大企業やら当局やらの“本隊”が、やおらやって来て、あれこれ口煩く宣う。そうなると、粗野だが活力溢れた雰囲気は後退し、小役人根性と屁理屈が幅を利かせる面白味のない社会になってしまう。満州でもまた、そうであったに違いない。
長春は発展途上だった。「自由經營の意氣ありて、官憲に攀ぢず、大會社に依頼せず、隨つて名士高官の送迎抔に虛禮を厭ふ長春同胞」の怪気炎を聞いた翌日、「日支合辨の鐵道にて」吉林へ向かった。この鉄道の「設備の言語道斷なるは呆るゝの外なし」であるだけではなく、「其の經營の馬鹿々々しき事、其の不正の行はるゝこと、凡そ支那人と合辨事業をなすより生ずる弊害」は数限りがなかった。
この時代、すでに「凡そ支那人と合辨事業をなすより生ずる弊害」が指摘されていたわけだから、やはり日本はどのような理由があれ「凡そ支那人と合辨事業」なんぞに取り組むことは得策ではなさそうだ。
満州は「北に向ふに隨ひて、漸々土地豐沃」であり「滿洲の貴きを感ず」。「長春より東に折れて吉林に向へば、其刻々に地味の豐饒」な大地が続く。果てしなく広がる真っ黒い大地は、挿した箸から根が生えると形容されるほどに地味が豊である。《QED》