――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(22)徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

【知道中国 1797回】                       一八・十・初一

――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(22)

徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正七年)

「實利的の本能を有」しながら、その一方で「虛榮心滿々として、理窟に拘泥する支那人」を相手にするには、どうすればいいのか。「此の如き人種に向て、唐突、無遠慮に、我が註文も強制」したら、「彼等をして懊惱、憤惋、屈辱、不愉快を覺えしむる」ことになる。じつは彼らは「實利主義者なれども、恩讎の念に於て、淡泊ならず」。「決して忘讎者にあらず」。だから「吾人は我が不用人、無頓着の結果、徒らに支那人の反感を沽ふ影響の、甚だ重大なるを虞れずんばあらず」。

「虛榮心滿々」で「理窟に拘泥する」うえに「決して忘讎者にあらず」というのだから、もはや処置ナシとしかいいようはない。やはりケイ(敬、軽、警、携、計、・・・)して遠避けるのが得策か。

■「(一九)下宿屋の敵討ち」

「排日者の留學生に多きは間違いなき事實」だが、その背景を考えれば「彼等が日本にて被りたる、虐遇、薄遇、冷遇に對する、當然の反應と見るの外なし」。日本人が普通に対応しているにもかかわらず、「邪推深き支那人」は「虐遇、薄遇、冷遇」と思い込んでしまう。留学生が排日に奔ることに関しては、「何れにしても、我が邦人の冷かなる心膓が、支那留學生に反應したる、結果と見る可き」だ。

ということは「排日の一半は、日本人自から之を誘起したるものにして、自業自得」というべきだ。だから「せめて日本人として、支那人に對して、今少しく温かなる心膓を、表示したく思ふ」。

相手に対し心を砕き、心を通わせておけば、「利益の衝突する場合に、幾許の緩和力」を持つだろう。「世の中は、損得打算のみにては、成立せず。打算以外の打算あり、損得以外の損得あり。是皆な感情、思想の支配する所たり」。やはり「彼等の皮下にも血あり、彼等の眼底にも涙あり。彼らは決して器械にあらず、人間なることを知らば」、それなりに遇すべきだ。

――ならば徳富センセイに伺いたい。恩を仇で返すような留学生の犯罪までも、「彼等が日本にて被りたる、虐遇、薄遇、冷遇に對する、當然の反應と見るの外なし」と、「今少しく温かなる心膓を、表示」すべきなのか。利害打算なんぞ全く考えず、全身全霊の善意で留学生に対していた庶民に対する人非人のような犯罪までも、「日本人自から之を誘起したるものにして、自業自得」と我慢するしかないのか。

■「(二〇)腑甲斐なし」

「日本人も、支那人も」、欧米人からすれば「世界の特殊部落として、取り扱はれ」、「均しく異敎徒」であり「黃色人種」であるから、「日支人は樂を同うせざる迄も、或る程度迄は、憂を同じうしつゝある也」。だが「支那人が動もすれば、其の手近き日本人を袖にして、遠き歐州人に倚らんと」するが、「其の責任は、日支兩國民に等分」すべきではないか。

「支那人本來、事大主義者にして、歐米人を餘りに多く買被り、日本人を餘りに多く買落としつゝあ」る。彼らは日本人を余り理解していないが、「支那人をして、日本及び日本人を、十二分に諒解せしまざるは、亦た日本人の怠慢、無頓着の責」であることを知るべきだ。

だかこそ、日本は彼らに向って力と意を尽くしてプロパガンダを展開すべきだ。「日支兩國の關係を、分明に告白し、支那人をして、自らの立脚の地を覺悟せしめ」なければならない。「日支親善の大目的を把持し」てはいるものの、「平生其の關係を閑却する」からこそ、欧米に乗ぜられてしまうのだ。「其の腑甲斐なきや、言語道斷也」。《QED》


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